第791話 『条約締結と新しい秩序』

 文禄二年二月八日(1593/3/10)諫早城

「御苦労様でした、叔父上」

 居室でくつろいでいた純正に報告をしている政直であったが、公務以外のときは叔父と甥である。

「いやいや、まさかわしがあの明国との交渉にあたるとは……考えもみんかったわい」

「かようなお役目、叔父上にしかできませぬよ。戦は始めるより終わらせるのが難しゆえ、いかに勝ち戦であっても禍根を残すことがあってはならぬのです。……それで、条約の旨(中身)は見ましたが、良い落とし所かと思います」

 ・広州、寧波、天津の割譲
 ・660万貫文の10年払い
 ・朝鮮と琉球の独立を公式認定
 ・他の朝貢国に対して宗主権の放棄
 ・肥前国の領土承認と永久不可侵
 ・条約文を各国に送付
 ・陸海軍の軍備の上限設置

「独立を認むる事、加えて宗主権を棄つる事は今さらであったが、陸海軍に上限を設ける案を持ってきた時は驚いた。然れど、明の軍の力が抑えられればそれでよし、としたのだ」

 結局のところ、明の領土の占領が目的ではないのだ。

 肥前国の安全保障と交易の確立こそが最大の目標である。広州、寧波、天津の割譲は、交易拠点の確保と万一の場合の緩衝地帯としての役割を期待してのものだ。

 莫大ばくだいな賠償金も、戦費を回収し、今後の発展を支える資金として必要不可欠である。

「然れどなにゆえ広州と寧波、天津の割譲のみを求めたのだ? いっそのこと越後の上杉と同じように、一か所のみ残して全ての割譲を要求し、譲らねばよかったものを。はじめは要求しておったろう?」

 政直は最初の提示案と最終提示案は純正に示されており、その間の細かな調整を政直に任せていたのだ。

「叔父上、越後と明では人の多さも土地の広さも、まるで違います。日ノ本の人間がそこへ行き、いきなり治めるのは非常に難儀にございます。それに、明は倭寇の問題を理由に我が国との交易を拒み続けていおります。然れどその間、台湾やルソン、さらには南方の国々へと我が国が入植し、交易を拡大する中で、明からどれほど多くの流民や移住者が我が国に流れてきたと思いますか?」

 移住者? 政直はキョトンとした。そういう管轄は内務省や領土開発省だ。

「移住……流民の数はしかとは存ぜぬが」

「そうでしょうね。この辺りはあまり目立たぬ話にございますが、我らが台湾への入植を始めてから、なんと23年が経っております。その間に、70万人以上もの民が我が国へ流れてきたのです」

「なんと!」

 政直は驚きを隠せない。

「残念なことに、先ほど話した越後もそうですが、奥州の各地でも同じようなことが起きておるのです。人は皆、より良い暮らしを求め、そしてそれは悪ではないのです。すると、さきほど叔父上は広州や寧波、天津だけと仰せでしたが、五年十年たつとどうなるとお思いですか?」

 政直はしばらく考えていたが、ハッと気付いたように言う。

「移住者! 流民が増え……その周りの土地も、統治が成り立たず……我が国の統治を望むと? !」

「その通りです。交易で潤い、文化に触れ、そして統治の良さを知れば、民はおのずと我らの元へ来るでしょう。無理に奪うよりも、自ら望んでくれる方が、統治も容易になります」

 純正は静かにほほえんだ。武力による征服は一時的な支配しか生まない。真の支配とは、民の心をつかむことにある。

「なるほど……そこまで考えておったとは。さすがは平九郎(純正)じゃ」

 政直は感嘆の声を上げた。

 最終的に広州、寧波、天津のみの割譲で妥協したことを不思議に思っていたが、純正の真意を知って納得した。

「それに、明の陸海軍の軍備を制限したことも、この流れを促すでしょう。軍備に費やす資金が減れば、民への福祉や街道整備などに回せる。結果として明の民の生活は向上し、人口も増加する。そうなれば、さらなる移住者が我が国へ来る可能性が高まります」

 ん?

「然れどそれでは、確かに我が国への脅威は減るが、かえって明を甘やかす事に、疲弊から立ち直ることを助長するのではないか?」

「然に候わず。仮にそうなって、暮らし向きが良くなったとしましょう。然りながら人口が増えれば職を奪い合い、資源を奪い合うことが必ずやでてきます。そうなれば逆に暮らし向きが悪くなる人々が出てくる恐れがあります。 これらの人々は、より良い生活を求めて、日本へ移住するでしょう」

 いずれにしても、と純正は続ける。

「そうならずとも明の民の暮らし向きは悪くなる一方なのです。仮に万暦帝が改心し、臣下が奮闘しても凋落ちょうらくは止められませぬよ」

何故なにゆえそう言い切れるのだ?」

 政直は眉をひそめた。明の衰退は確かに深刻だが、まだ持ち直す可能性もあるのではないかと考えていたのだ。

「叔父上、明の事の様(状況)をよくご覧くだされ。官僚の仕組みは既に腐り果て、民草は重き年貢にあえぎ苦しんでおる。諸国では反乱が相次ぎ、国の力は衰えるばかりにござる。かような問題、日を追うごとに悪化するばかりで、一朝一夕に解決できるものではありませぬ」

 純正はため息をした後、続ける。

「それに明は世界情勢の変化に対応できていない。我ら肥前国は交易を通じて、鉄砲や大砲などの最新兵器を手に入れ、自ら造り、さらに技を磨いて国力を強化してきた。一方、明は依然として旧態依然とした体制にしがみつき、鎖国状態にあるため世界の流れから取り残されている。この差は今後ますます広がるばかりでしょう」

「うべなるかな(なるほど)……」

 純正は指で地図上をなぞりながら、説明を続けた。

「それに対し我が肥前国は世界中に交易路を広げ、鉱山を開発し、莫大な利を得ている。新大陸産のトウモロコシやジャガイモ、トマトなどの作物も大量に我が国に流入し、食糧の事の様は大幅に良くなった。結果として人口も増加し、国力は増大している。明との国力の差は開くばかりであろう」

 政直は深くうなずいた。

 純正の説明を聞き、明の衰退はもはや避けられない段階に達していることを再確認したのだ。

「ゆえに我らは今、この機に乗じて東アジアの覇権を握らなければならないのです。広州、寧波、天津を拠点に交易網を構築し、経済力を強化することで、明に依存することなく、自立した国家を築く。それが某の目指すところです」

 既に明に依存しなくても十分に確立されている肥前国の支配網であったが、改めて言う純正の言葉には、強い決意が込められていた。

「然れど、明が条約を破棄して攻めてくる恐れもあるのではないか?」

 政直は改めて懸念を口にしたが、純正は即答で返す。

「その恐れはない……少ないでしょう。明は今、内憂外患を抱え、とても我が国と争う余裕はありません。それに条約の内容は各国に送付するのでしょう? ならば明が条約を破棄すれば、自滅となります」

 純正は自信に満ちた表情で言った。




『大東亜共栄圏』




 純正の脳裏にその言葉がよぎったが、戦後30年で生まれ、平成と令和を生きた人間である。歴史認識として小中高で教わってきたイメージは悪であったが、よくよく考えると悪い意味ではない。

 大いなる東アジアで共に栄えよう、という理念だ。

「あい分かった。わしも微力ながら、今後とも平九郎を支えていくとしよう」

「頼みます、叔父上」

 わはははは、と笑い声が居室に響いた。




 次回予告 第792話 『賠償金の受取~』

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