第147話 『万次郎の帰国と大阪』(1852/2/29) 

 嘉永五年二月十日(1852/2/29) <次郎左衛門> 

 万次郎さんは年末を待たずに、去年の11月に土佐に帰っていった。
 
 商人同士のやり取りは、乾堂くんと慶ちゃんに任せてはいるんだけど、やっぱり面通しはやったほうがいいらしい。二人ともけっこう規模の大きい商売をしていても、信用第一という所では、大名の家老というのはどうなのだろうか。




「淀屋様、こちら、以前お話いたしました大村御家中の、家老の太田和様にございます」

 50歳を超えたくらい? の恰幅かっぷくの良い男性を乾堂君が紹介してくれた。六左衛門さん以来の付き合いらしく、京都や大阪関連の取引の窓口になっているようだ。

 ん? 淀屋?

「初めてお目にかかります。太田和次郎左衛門と申します。小曽根屋さんや大浦屋さんから話は聞いていると思いますが、以後もわが大村家中の品を、よろしくお願いします」

「これはこれは、わざわざ御武家様からご挨拶いただくとは驚きました。私、淀屋清兵衛と申します。……太田和様、とお呼びすればよいのでしょうか」

「ええ、構いません」

「いやあ、お二人から聞いた通りのお方にございますな。失礼を承知で言いますが、およそ御武家様とは思えない立ち居振る舞いにございます」

 どうした? 淀屋、淀屋……淀屋? あ! 思い出した! 大阪の豪商で幕府から潰された淀屋だ! その後のれん分けした伯耆国で勢力を巻き返して、後期淀屋として大阪で返り咲いたんだ!

 今は、確か4代目清兵衛だ。まじかあ……。

「ははは、おかしな事を仰せですね。思えない、とは如何いかなる事にございましょうや」

「いえ、何でもございません。斯様かように商人をお連れになる御武家様は初めてにございました故」
 
 うまくお茶を濁されたが、本心では武家への複雑な感情を抱えているようだ。複雑どころか憎しみ以外の何物でもないだろう。

 淀屋にとって、武家は傲慢無礼な存在でしかなく、幕府に対して嫌悪感しかない。常に商人を見下し、何かあればすぐに御用金だなんだとむしり取る。世の中の寄生虫としか思っていないはずだ。

「互いの立場を解し、尊ぶ事が肝要かと存じます。それがしも商人の皆様から、多くのことを学ばせていただいております」

 俺は淀屋の本心を察しつつも、あくまで冷静に受け止めている。

「太田和様のような御仁がいらっしゃること、誠に心強く存じます。今後とも変わらぬお付き合いを賜れれば幸いでございます」

 淀屋は俺との関係を大切にしたいと考えているようだが、武家全般への不信感は簡単には拭えないだろう。




「さて、此度こたびお大きな取引があると聞きましたが、如何なる取引にございますか」

 淀屋はにこやかに笑いながら、目の奥には人の本質を見抜くかのような鋭さを宿している。

「実は、茶の仕入れを大がかりに行いたいのです。宇治茶に伊勢茶、美濃茶に近江茶。幾内は総じて茶の産地にございますからね。加えて油です。新しい魚油と、それから菜種より明るく減りの少ない油の売り込みをしたいようで」

 慶ちゃんはこうやって各地の商人とパイプを作って、欧米の茶の需要に応えるべく、仕入れ先の開発を産物方のお里と一緒にやっている。もちろん、新規での茶畑の購入や開発も忘れない。

 その場合はマージンがないからそのまま儲けになる。

 乾堂君は越後や信濃で精製された灯油と、蝦夷地&地元の魚油精製油を売りたいのだ。これも産物方と一緒にやっている。お慶ちゃんの大浦屋はもともと油問屋だったが、将来性がないと撤退した。

 今回の魚油の精製や灯油の製造は興味をしめしたが、お茶で手一杯らしい。

「なるほど、大変面白そうな取引ですな。茶と油、どちらも日々の営みに欠かせぬ品です」
 
 淀屋は俺の説明に耳を傾けながら、さらに詳しい情報を求めるかのように眼差しを向けた。

「大浦屋さんの茶の仕入れは、異国での茶の入り用を見越してのことでしょうか。茶の輸出は今後さらに伸びると聞いておりますが」

 さすが大阪商人。後期淀屋の4代目だけの事はある。

「然様です。慶殿は先を見越して動いておりまして、各地の茶の特性を見極めながら、異国人の好みに合わせた仕入れを考えているようです」

 俺はあくまで第三者を装ってはいるが、もしかしたら淀屋には見抜かれているかもしれない。

「小曽根屋さんの油の件も面白い。特に蝦夷地の……しかも新しい魚油とは? それから灯油なるものは初めて耳にしますが、如何なるものでしょうか」

「はい、乾堂殿が取り扱う魚油ですが、これまでは臭く、黒い煙がでるのが相場にございました。然れど、新しき技にて濾した油は臭いも少なく煙も出にくいのです。灯油に関しては越後や信濃で作られているのですが、清兵衛殿は臭水はご存じですか?」

「存じております」

「その臭水を、蒸留なる事を経る事で菜種油よりも明るく燃え、しかも臭水に比べて減りにくいという良さがござる。まだ広く知られてはいませんが、先には必ず要るようになる品と、乾堂殿は見込んでいるようです」

 俺は淀屋の質問に丁寧に答えていく。

「ふふふふふ、ほんに……」

如何いかがされた?」

「ほんに、面白いお方にございますなぁ。御武家さんとは思えませぬ。まるで商人のようですわ」

 俺は一瞬動揺したが、すぐに平静を取り戻した。

 この人はどんな武士にもこんな態度なんだろうか? 若いといっても一日中の家老なんだけど。それとも家格とか関係なく、俺だから気を許したような話し方なのか?

「そのような……。それがしは単に大村家中の家老として、領内を栄えさせる為には商いの理解も要るかと」

 淀屋は含み笑いを浮かべながら言った。

「いえいえ、太田和様。お目が高うございます。商いの機微をよくご存じで。しかも、蝦夷地や越後の新しき油のことまでお詳しい。並々ならぬご見識にて」

 俺は冷静さを保ちつつ答える。

「褒め言葉と受け取っておきましょう。ただ、これも家中のため、民のため。商いが栄える事が世の栄えに繋がると存ずる」

「なるほど。太田和様のような方が武家にいらっしゃるとは、心強い限りにて。これからは、武家と商人が手を携えていく時代になるやもしれませぬな」

 淀屋の言葉に、俺は内心ほっとしながらも、商売の話に戻った。

「では乾堂殿、魚油と灯油の見本を。淀屋さん、江戸から戻って来るまでに、お返事をいただけますか?」

「考えておきましょう」




 大阪での商談を上首尾に終え、江戸に向かうのであった。




 次回 第148話 (仮)『江戸商人と打抜き缶の発明(開発)』

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