文久元年十二月二十日(1862/1/19) 江戸城
「これはこれは蔵人殿(次郎)、如何なさいましたかな? 某、もはや大抵の事には驚きませぬぞ」
「上野介様、なにも驚かそうなどとは考えておりませぬ。実は此度、お許しいただきたいことがございまして、罷り越しました。この上はお許しいただき、御大老様にも上書いただきたく存じます」
小栗上野介は、どちらかというと融通が利かぬと言うか、頭の回転が速すぎて他の者を置いてけぼりにするきらいがある。しかし次郎に対しては自身の期待の上をいく存在のため、いつも内心は楽しんでいるのだ。
だがそれを大っぴらにはしない。
「はて、如何なる事にござろうか」
「実は、先日ハリス殿と面談を致しまして」
「なに?」
上野介の声が強まった。
次郎は上野介の反応を確かめるように、一瞬間を置いて続ける。
「はい。折り入って相談があるとの事で、公使館に伺いましたところ、わが国に輸出というよりも、買ってほしい物があるとの事でございました」
「買ってほしい物?」
上野介の眉がピクリと動く。貿易の事であれば、なぜ自分に話を持ってこずに次郎に話したのであろうか。それが疑問なのだ。何か特殊な取引なのであろうか。
そう考えている上野介を察して次郎は言う。
「米国の戦時国債にございます」
「戦時……国債?」
オランダ風説書がなくなって、代わりに官版バタビヤ新聞が発行されるのは来年になってからだ。これは攘夷を鎮めるために、幕府の要人が独占していた海外の情勢を国民に知らせるものである。
しかし、外国奉行たる小栗上野介は随時情報を得ており、南北戦争のことも知っていたのだ。
「なるほど。北軍、合衆国の発行する国債……国の債券、というわけか。それを買ってほしいとな?」
上野介の声は冷静さを取り戻していた。
「はい。然れどこれは国債の購入という形を取りながら、実は……」
「何であろうか」
上野介は従五位下であり、次郎は六位蔵人であったが、上野介は次郎に対して敬意を払っていた。一連の次郎の活躍を見て、敬意を表すに値する人物だと思っていたのだ。
「某は物資にて購入したいと提案いたしましてございます」
「物資?」
「は。戦に要るであろう物資を金の代わりにして買いたいと考えております」
上野介は考え込んだ。
戦争に必要な物と言えば、武器弾薬や食料その他の兵站物資である。上野介は詳細は知らないものの、大村藩はクルップ砲製造に必要な大量の鋼材を生産できる転炉を開発している。
金属薬莢の生産や、連発式の小銃の開発も完了して実用化しているのだ。
「まさか、家中の武器を国債の購入に充てると仰せか?」
「然に候わず(そうではありません)。彼の国がわが家中の武器など欲しがるはずもありませぬ。わが家中が購入に充てるのは鋼材と真鍮にございます」
「うべなるかな(なるほど)……」
上野介の声が低くなった。
一時は大村藩からの武器輸出と聞いて、そんなに多くの武器を備えているのかと驚いたが、鋼材や真鍮などの生産力を考えると、大村藩の軍事生産能力は驚異的なものである。
「それで、ハリス殿は承諾したのであろうか」
「は、まずは少量より始め、子細(問題)なくば正式に取引をしたいと仰せにございました」
上野介は腕を組み、考え込んだ。
1つの疑問が浮かんだのだ。
「……蔵人殿、国債と仰せだが、いま米国は北と南に分かれて戦をしている。その国債はもともとの米国、合衆国のものであるが、もし戦に負けるようなことがあれば、紙切れ同然となるだろう。これは賭けであろうか? それとも必ず合衆国が勝つという筋があるのであろうか」
「は。然ればつまびらかに申し上げます」
次郎は姿勢を正した。
「まず、南北の経済力の差でございます。北部諸州、合衆国の工業力はすさまじく南部を圧しております。加えて南部諸州、連合国は農業国でございまして、工業は北部と比ぶべくもございません。特に鉄道の整備状況が極めて違うとハリス殿も仰せでした」
「ふむ」
「加えて人口にも大きな開きがございまして、南部は人口の四割が奴隷でございます。兵力として見込める人数が北部の半分以下にございます」
「ほう」
「そして最も重要なのが、港の封鎖でございます」
「港の封鎖?」
「はい。北軍は南部の主要港を次々と封鎖しており、南部は物資の補給に窮しております。綿花の輸出もままならず、資金繰りも苦しいとのことです」
上野介の表情が変わる。これは単なる見込みや期待ではない。具体的な分析に基づいた判断だと理解したのだ。
「然様でございましたか。蔵人殿の見立てでは、いつ頃決着がつくでしょうか?」
「早くて二年、遅ければ四年ほどかかるかと存じます。それまでは戦時国債の発行が続くでしょう」
「四年も! ?」
「広大な国土での戦いゆえ、簡単には決着がつきませぬ。然れど勝敗の行方は明らかかと」
次郎の言葉に、上野介は深くため息をついた。遣米使節でアメリカに赴いた上野介は、その広大さと工業力(北部の)を目の当たりにしているのだ。
「……あい分かった。然れば公儀として米国の国債購入の儀、御大老様に上書いたすとしよう。時に蔵人どの……」
上野介は考えた。
幕府にとってのメリットとは? 大村藩の軍需物資を輸出して国債を購入するという取引は、それを許可することで、いったいどんなメリットが幕府にあるというのだろうか?
「蔵人殿、この話、公儀にとって何か利のある話でござろうか?」
上野介は実利という部分で、まったくメリットがないと感じていたのだ。
「は?」
「御家中は鋼材を売り、国債を得る。これは分かる。然れど公儀としては単なる取次に過ぎぬではござらぬか。確かに公儀には御家中のように米国に売る物はない。然りとてなにも利がなくば、幕閣のお歴々にご得心いただくには心許ない」
次郎は一瞬言葉に詰まった。
上野介は駆け引きをしているつもりはない。金銭的なものや物質的な実利がないという現実を言っているのだ。やはり、この取引における幕府のメリットを明確に説明することは難しい。
しかし、だからこそ……。
「上野介様。有り体に(正直に)申し上げます」
「うむ」
「この取引、確かに御公儀にとって直に利があるわけではございません。然れど一家中に任せるには大きすぎる話。御公儀の監督なくしては、米国からの信も得られ難いのです」
上野介は深くため息をついた。実利はない。しかしアメリカに貸しをつくる事ができるし、大村家中の生産品とは言え、日本産の鋼材や真鍮がアメリカにわたりその品質を知らしめるのだ。
「つまりは、公儀の後ろ盾が必要だと」
「はい。取引の安全のためにも、御公儀の威光をお借りしたく」
上野介は考えている。
確かに実質的なリスクはないだろう。しかし、もし何らかのトラブルが発生すれば、幕府の威信はさらに低下し、諸外国にそれをつけ込まれる。ただでさえ対馬事変で頭が痛いのだ。
「ふむ……では蔵人殿、二割でいかがであろうか」
「二割、とは?」
「……某としては蔵人殿のご慧眼、疑うべくもござらぬが、公儀の名を貸すのでございます。名を得るという利の他にも、実を得ねば約するは難しと存じます」
次郎は考えていたが、やがて結論を出した。
「よろしいでしょう。では、一割五分で」
「……ふふふ、承知いたした」
あうんの呼吸というのだろうか、互いに無理強いせず、Win-Winの関係構築のための建設的な会談である。
アメリカとしては喉から手が出るほど欲しいものだが、品質を担保するために幕府の公認というのは欲しいところであり、次郎もいらぬ波風を立てず、利益独占という誹りを受けずに済む。
幕府には実質的なリスクはないが、名目上であっても日本(幕府)としての取引である。問題発生時は責任を取らなければならない。しかし、仮に合衆国が負けたとしても痛手はないのだ。
「あわせて今ひとつ、清国とのことでございますが」
「清国?」
上野介はなぜここで清国が出てくるのか、と思いつつも、その興味を抑えることができなかった。
次回 第269話 (仮)『清国との交渉と、京と薩摩の不穏分子』
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