第277話 『久光の上洛と寺田屋事件』

 文久二年四月一日(1862/4/29) 京都 岩倉邸

 発 諸調方しょしらべかた(諜報局) 宛 蔵人様

 薩摩ノ草ヨリ報セアリ 島津三郎様 上洛ノ由




 日本は次郎の活躍で不平等条約は締結しておらず、関税自主権もあり、領事裁判権も認めていない。また、開国に関する勅許も、神戸の開港や大阪の開市について行き違いはあったが、次郎の奔走で事なきを得た。

 しかしそれでも国内すべての攘夷じょうい志士を一掃することはできず、京都では対馬事変の真実を曲解して、正義は我にあり、攘夷は能うと声高に叫ぶ輩がいたのも事実であった。

 過激派による天誅(要人暗殺)や商家への押し込み(強盗)などが発生し、このままでは所司代・奉行所のみでは防ぎきれなくなる状況だと次郎が考えていた矢先、久光の上洛の報せが入ったのだ。

 次郎は寺田屋事件の事は歴史知識で知っており、京都での惨劇を防ぎたかった。

 だがその一方で、いい加減国政に参画するのに少しげんなりしていたのも事実である。話してわかる連中ばかりじゃない。それは次郎がこの世界に転生してから嫌というほど味わった事である。

 それならば史実の佐賀藩のように、技術立国を目指しても良かったのではないだろうか?

 今後久光は文久の改革を主導して、京都守護職を設置する。

 人がやってくれるなら、任せればいい。

 次郎はそう考えた。

「岩倉様、只今ただいまは朝廷はいかなる考えが主にございましょうや」

 朝廷工作の協力者である岩倉具視が、傍らから次郎の質問に答える。

「そうどすなぁ。公儀に対する悪しき思いはあらへんようにございます。開国をするにしたかて、国民の心を乱すことあらへんようにお上も願うてあらしゃいます。尊皇の志士があり、朝廷を尊ぶはありがたいことなれど、攘夷を掲げいらんこと世の中を乱すことは誰も望んでおらしまへん。むろん幕府もしっかりしてもらわなならしまへんが、次郎さん、対馬の件についてはいっぺん参内して説明していただきたい」

「はい。それは無論のことにございます」

 次郎からの電信で、岩倉は朝廷内のとりまとめに奔走していた。

 対馬事件に関しては理由もなく撃退したのではなく、正当な理由があったこと。また、相手が1隻だったので良かったが、列強の力はその何十倍もあることを諭して回ったのだ。

 おかげで大きな混乱はなかったが、久光の上洛は慎重に対処しなければならない事に変わりはない。

 しかし京都中のみならず、日本中の攘夷志士の期待を受けた久光の上洛であったが、当の久光には攘夷や倒幕の意向などはなかった。
 
 久光の目的は、ただ斉彬の遺志を継いで幕政に参画し、公武合体を推進させる事であり、徳川将軍家を事実上の元首としてその元に諸侯会議を作るものである。

 これに対して次郎の考えは、公家・諸侯による上院と庶民を含めた下院を組織して、徳川将軍家も上院の主要な一員として政治に参画するものであり、最終的には立憲君主制を考えていたのだ。

「薩摩の……国父、三郎殿とらやらが上洛してくるのやろう? 目的はなんですやろか?」

 岩倉は率直な質問をした。

「おそらくは勅許でしょう。朝廷から亡き掃部頭様へ送られた勅には、不時登城の罪を減じ、協力して国事に当たらせよとは記してあったものの、合議の儀はつぶさに記されていなかった由。それゆえ公儀はいまだ有力大名を登城させ、幕閣に入れようとはしておりませぬ」

 確かに次郎は外に目を向ける事案、藩内の事案が多かったので、幕政に関しては若干後回しにしていたきらいがあった。諸大名もそれ以降は積極的に幕政に関わろうとはせず、内政に専念し、国力の増強を図ってきたのだ。

 そもそも本来なら、あまり中央に関わりたくはない。

 そこで、久光が動いたのだ。

 京都には薩摩の脱藩浪士もいたが、有馬新七や橋口吉之丞らのれっきとした藩士もいたので、彼等が騒動を起こせば言い逃れが出来ない。公に幕府から処分が下されるのだ。

「ところで次郎さん、よからへん噂を聞いたんじゃが、薩摩藩士らが所司代の酒井殿、関白様を襲うちゅうのんは、ほんまですやろか?」

「恐らく、真の事でしょう」

「……恐ろしいことでありましゃる。尊皇尊皇と、ほんまにお上を尊ぶならば、攘夷ではなく開国ではあらしゃいませぬか?」

 岩倉は顔をしかめ、ため息とともに言った。

「然に候。然れど岩倉様、もしそれがしが、我が大村家中がなかったならば、今この日本は|如何《いか》なる様になっておったとお考えになりますか?」
 
 岩倉は沈黙した。

 確かに、次郎と大村藩の存在がなければ……。

 不平等条約を結ばされ、関税自主権も領事裁判権も失い、開国の勅許も得られないまま開港を強いられ、朝廷と幕府の間にもさらなる軋轢あつれきが生まれていたかもしれない。

 対馬事変はやられっぱなしになり、外国人襲撃はひどくなって日本にとっては悪い想像しかできない。

「そうどすなぁ。まろにも想像できましゃる。条約は不平等なものとなり、攘夷の志士たちの怒りも、より一層激しいものとなっとったやも知れしまへん」

「然に候。故に今、島津の国父様の上洛に際し、我らはあえて動かなくてもよいかと存じます。無論……」

「ええ。薩摩の志士の暴発は防がなあきまへんな」

 岩倉は次郎の真意を理解した。

 大村藩の存在によって最悪の事態は避けられた。しかし今なお、過激な攘夷志士たちの暴発の危険は残っている。それを抑えるのは、藩の主導者たる久光の役目なのだ。




 ■寺田屋

「ややっ! これは御家老様! いつ京にお越しになったのですか?」

「つい先日。それよりも真木殿、平野殿、折り入って話があるのだが……」

 寺田屋にいたのは真木和泉と平野国臣である。

 二人は大村に遊学中で、大村藩の近代的な技術と開明的な諸々の制度に感嘆し、いまのままでは攘夷は単なる絵空事だと認識するまでになっていた。

 しかし対馬事変の報を知り、大村派の技術と軍事力をもってすれば攘夷は可能と判断したのだ。その後許しを得て京都へ向かい、攘夷志士と会合を繰り返していた。

 そこには以前からの知り合いも多くいた。




 次郎はそう言って二人を寺田屋の外に連れ出し、適当な店に入って話をした。対馬の件は確かにロシア艦を沈めたが、あれはロシアが国際法上容認されない行為をしたためで、単なる報復であり、攘夷ではない。

 また軍事力の面に関しても、現時点では列強に敵うべくもなく、攘夷を行って戦争の口実にしてはならないなど、説得したのだ。

「うべなるかな(なるほど)。然れば御家老様は、それを我ら二人で説いて回れと?」

「うむ。島津の国父様が兵を率いて上洛されるが、攘夷倒幕の意思はなく、尊皇の志はあれど、あくまで亡き斉彬公の遺志を継ぐためとな。見ず知らずのオレが話すより、見知った貴殿等のほうが話を聞くであろう」

 二人はしばらく考え、顔を見合わせていたが、やがて意を決したように告げる。

「承知いたしました。この和泉、平野殿と合力して説いて回りましょう」




 次郎はやるべき事はやった。ここで久光に会って攘夷志士への対応を協議したところで、次郎は薩摩の人間ではない。口を出すなと言われれば終わりだ。

 それにやはりこの時代、口で言ってもわからなければ……実力行使しかない。

 それを次郎に再認識させるかのように、歴史通りに寺田屋事件は起きたのであった。




 次回 第278話 (仮)『久光の幕政改革』

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