文久二年八月五日(1862年8月29日) 江戸城
『英国の罠 – 仕組まれた事件』
次郎が小説家なら、この時期の出来事をこういう話題にタイトルをつけそうだ。
が、小説家ではない。
現場にいるのだ。
「三郎殿、こたびは従四位下左近衛権少将への叙任、誠に喜ばしい事でござる」
大老安藤信正は、登城してきた島津久光に向かって言った。
「それがしからも、お祝い申し上げます」
純顕の言葉の後に、次郎も頭を下げて喜びを表す。発言はしない。
「かたじけない。この難局を差配する大老安藤対馬守殿と名君の誉れ高い大村丹後守殿にそのように仰っていただくとは、恐悦至極に存じます」
様、ではなく殿、である。
敵ではないが本心は見せない。
「……」
「……」
「……」
「では少将殿、お越しいただいた目的は、それがしが言わずとも、お分かりかと存ずる」
口火を切ったのは安藤信正であった。
「生麦での事、詳しくお聞かせ願いたい」
「は」
久光の声は低く響いた。
「薩摩への帰途、生麦村にて不測の事態が起こりましてございます。わが家中のものと外国人との間で起きた、不幸なる衝突といえましょう」
久光はどこか他人事である。
信正は目を細める。
「外国人が発砲したと聞き及んでおりますが」
「然様。我らは道を譲るよう指示いたしましたが、言葉が通じず……」
久光は一瞬言葉を切った。
「混乱の中で発砲があり、家中の者が止むなく成敗と相成りました」
「止むなく、と?」
今度は大村純顕が発言した。
「自らを守るために、致し方なく無礼討ちにしたと仰せか」
「然様」
「少将殿、真に外国人が発砲するまで何もなかったのでございますか?」
「何もござらぬ。あまりに言う事を聞かぬので、抜いてふりかざしもしたが、斬るわけがない。形だけ示してどかそうとしたのだ。これでも我らは我慢したのじゃ。奴らときたら礼儀も知らぬ。各国の公使館に、大名の……いや、それがしは大名ではござらぬが、安藤殿、それに準ずる者の行列に対しての作法は、通達しておられたのでしょう?」
純正と久光、そして次郎の視線が信正に集まる。
「それは……」
実は事前にあった久光からの通達は公使館には伝えられていなかったのだ。各国の公使館の警備は厳重にしていたが、通達はされていない。
信正ははっきりと答えはしなかったが、その素振りで誰もがわかった。純顕も次郎も驚きを隠せない。この時期、いくら多忙とはいえ、事故防止のためには必要な事だ。
「なんと……それでは公儀にも責はありますぞ。いや、いずれにしても我らは我が国の法に則って処したのみ。それに異国を旅するのに通詞もつけぬとは」
通訳の有無は別として、久光は幕府の弱みを一つ握った事になる。
「それよりも」
純顕が話を変えた。
「これより如何にしてイギリスに処するか。それが問題にございましょう」
まさにそうである。間違いなく謝罪と賠償を求めてくるだろう。
「謝罪ですと? なにゆえ我らが謝罪せねばならぬのですか。郷に入れば郷に従え。それに奴らが銃を撃ったのは間違いないのです。我らがそれに処するために斬りつけた。なんの問題があるのですか」
「少将殿」
信正が久光を制す。
「確かに、少将殿が仰せの儀、真にもっともにござる。然りながら外国では通用しませぬ。大名行列を遮った、言う事を聞かなかっただけで斬りつけるなど、あり得ない事でしょう」
「だけ、とは何でござるか。銃を放ったのですぞ。聞き捨てならぬ!」
「ま、待たれよ御二方!」
純顕が慌てて間に入った。
信正も久光も少し感情的になっているようだ。
「まずは落ち着きましょう。まとめると……」
・久光の行列を遮るようにイギリス人4人が向かってきた。
・イギリス人は、たびたびの制止にもかかわらず行列を通り抜けようとした。
・いよいよ久光に近づいたので、藩士が刀を抜き、威嚇をした。
・それをみてイギリス人が発砲した(威嚇)。
・明確な攻撃とみなし、斬りつけた。
「これでよろしいか?」
「待たれよ、銃を撃って逃げた二人が入っておらぬ」
即座に久光から訂正がはいった。
やはり。
純顕と次郎は顔を見合わせた。二人の思惑と久光の発言が合致したのだ。
「その二人の事は診療所や奉行所から聞いております。懸命に捜しておりますが、いまだ見つかっておらぬとの事」
純顕の言葉に久光が続く。
「まったく、曲者ではあるが何をしたかったのか皆目見当がつかぬ。刀を抜かれて驚き、威嚇のために銃を撃ったのなら、なにゆえそのまま人に向けて撃たぬのだ? 我が家中の者は他の者も銃を持っていると思い斬りかかったのだぞ。その時すでに二人は逃げておった」
「解せぬな」
「解せませぬな」
ほぼ同時に信正と純顕が声に出した。
「これは何やら、謀の恐れがあるのではないかと思われます」
そう純顕が発言すると、『謀じゃと?』と久光が食いついてきた。
「いかなる謀にございましょうや」
久光の問いに純顕が答える。
「これは……あくまで推し量っているのみにござるが、誰かが、我が国とイギリスとの間を裂こうと考えて、あるいは御公儀と島津家、あるいはイギリスではなく他の国、あるいはそのすべて。国を乱して列強の介入を促すためにやったこと……とは考えられませぬか?」
「なんと!」
信正が声を上げた。久光は腕を組み、黙り込んで考えている。
「そう考えれば、ひとまずは少将殿の疑問は解けまする。あとは誰が、いや、どこがと言った方がよいですが、どこがやったか」
純顕の言葉に信正が続いた。
「その儀については神奈川奉行所はむろんの事、総力をあげて二人を捜すといたしましょう」
この日は久光から事件の詳細を聞くことと、イギリスへの対処を考える事が議題であった。
その結果、当事者である久光が表にでると感情的になるであろうことから、まずは信正と純顕、次郎がイギリスとの交渉にあたることとなったのだ。
■英国公使館
(オールコック殿、あなたが言っていたのはこの事だったのか。それにしても、やりすぎですぞ)
事件発生後、発砲した二人は即座に横浜に向かい、外国船にのって上海へと逃げていたのだ。後に報告を受けたオールコックの後任の代理行使、エドワード・セント・ジョン・ニールは冷や汗ものであった。
まかり間違えば国際問題になりかねない。
しかしそこはオールコックの事、周到に準備していた。
「公使! 公使! いらっしゃいますか?」
執務室のドアをどんどんと鳴らすのは、横浜領事のフランシス・ハワード・ヴァイスである。
「入りたまえ」
勢いよく入ってきたヴァイスはニールに向かって声を上げる。
「いつ報復するのですか? このままでは我々の安全を保つ事ができません。我らに危害を加えたら、自分達も同じ目にあると思わせなくてはなりませんぞ!」
ヴァイスは明らかに興奮している。彼の声は横浜の居留民の声を代弁したものでもあった。
「待ちたまえ、君の気持ちはよくわかる。よくわかるが、軽々に行動してはならない。いったいどうやって報復するというのだね?」
「横浜に停泊中の英・仏・蘭の軍艦から陸戦隊を出し、島津久光一行を襲撃するのです」
「……仮に報復するとしても、仏・蘭の考えも聞かなくてはならないし、海軍のキューパー提督にも考えを聞かなくては。それに、報復をしたあとの事も考えなければならない」
「それは……」
ヴァイスは次の言葉がでてこない。
「この件は私に任せてくれないかね。報復をせずとも、それ以上の謝罪と賠償金をふんだくってやるさ」
どう考えても非は日本側にある。特に……交渉となればオールコックから聞いていた、あの男が出てくるだろう。国際法をよく知るあの男ならば、賠償金に応じざるを得ない。
そうしなければ、これまで自分がやってきた事を否定することになる。
ニールは自信ありげにヴァイスを説得したのであった。
次回予告 第286話 『横浜、イギリス領事館にて』
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