文久二年八月二十一日(1862年9月14日) 肥前 川棚港
「なんじゃこのどでかい船は……平三、本当にこれで間違いないのか?」
「はい、これで間違いございません」
男は使用人の男に聞いた。
乗る予定の船は、聞いていた普通の客船ではなかったのだ。
オランダから到着したばかりの2,500トン級鋼鉄艦の大成ほどではないが、既存の新鋭艦である清鷹ほどの大きさだ。その様子はおよそ普通の旅客船には見えない。
「おお、これは久しいな。てっきり日本国中を飛び回っていると思っていたが」
「いえ、とんでもない! こちらこそご挨拶もできずに、申し訳ありません」
「……あなたもこれに?」
「はい、仕事で上海に行こうと思っていたのですが、そこに御家老様からの急ぎの電文が入ったので……」
「なに?」
■文久二年八月二十五日(1862年9月18日) 上海 イギリス公使館
「なんだって? 今度は日本の捜査機関がくるから、租界内での捜査に協力させて欲しいだと? いったいニール殿は何を考えているんだ? それともなにかまずい……国際問題になるような事になっているのか?」
数日前の代理公使のニールから届いた電文には、逃亡した2人を適切に処理して欲しいと書かれてあった。
適切な対応、ではなく適切に処理、である。
捕らえてほしいという事は、他国に身柄を押さえられてはまずいという事だ。他国に情報が漏れたらまずいということは、最悪は……適切に処理、しなければならない。
パークスはハッとして考え込む。
「いずれにしても、捜索と確保はともかく、その後の捜査依頼は独断ではまずい。ともかく北京に話を通そう」
パークスは文書を作成し、日本からの依頼にどう対応すべきかを伺うことにした。しかし、外交官として為すべきは、いかに国益にそって行動できるかである。
最期は越権行為でも、独断で決めなければならない。
■フランス租界
「なあ、王さんと金さんよ……もう六日たっているのに、手がかりすら掴めない。いったいどこいるんだ……」
「それがわかれば苦労はしない」
日本語のできる王徳仁を介して金羅漢(最初に案内した男)にも愚痴を言っている晋作である。
もう捜索は青幇に任せて遊郭で遊ぼう! と提案したら全員に却下されたので、多少不満が溜まっているのだ。あれだけ大金を使ったんだから見つけなけれなばならない。
全員がそう思っていたが、晋作は不慣れな土地で探しても見つからないだろうし、下手に動いて問題になればいけないと考えていたのだ。
「王さん! 王さん!」
手下の一人が走り寄ってきて側近の王に耳打ちしている。
「なんだ? どうした?」
「……」
「おい、はっきり言えよ」
晋作の問いに王徳仁はしばらく考えてから、ゆっくりと語り始める。
「どうやら二人はこの租界にはいないようだ。……だとすれば、イギリス租界になる」
「なんだ、そんな事か。じゃあそのイギリスの租界に乗り込んで探そうぜ」
「待て、晋作。イギリス租界はフランス租界とは訳が違う。下手な真似はできんぞ」
雄城直紀が晋作を制止した。イギリス租界はフランス租界とは統治形態が全く違う。フランス租界内では大幅に融通が利くが、イギリス租界に入ってしまえば完全にイギリス警察の管轄下なのだ。
「その通りだ」
王が同意する。
「然れど……このまま手をこまねいているわけにもいくまい」
五代友厚が口を開いた。
「既に黄金栄には多額の報酬を支払っている。結果を出してもらわねば困る」
「確かに。それに、時間だけが過ぎていくばかりでは、日本国内の情勢も悪化する一方でしょう」
峰源助も同意した。幕府と薩摩藩、そしてイギリスとの関係は、一刻も早く解決しなければならない問題である。
「どうする、晋作?」
中牟田倉之助が晋作に尋ねた。晋作は腕を組み、真剣な表情で考え込んでいた。
「……よし、こうしよう。王、お主に頼みがある」
晋作は王徳仁に視線を向けた。
「なんだ?」
「イギリス租界に詳しい案内人を用意してくれ。そしてその案内人に、イギリス租界で怪しい動きをしているイギリス人二人組の情報を集めてもらいたい」
「二人組の情報か……確かに、青幇の情報網ならイギリス租界にも手が届く。だが、それ相応の報酬は必要だぞ」
王はニヤリと笑った。
「金は問題ない。必要なだけ出す。ただし情報は正確で、かつ迅速に集めてもらいたい」
晋作はきっぱりと言った。
「わかった。やってやろうじゃないか」
「では、早速ホテルに戻って準備に取り掛かろう」
王は自信満ちた笑みを浮かべ、一同は行動を開始した。
■ホテル『宏記洋行』
「高杉晋作様、お連れ様がお見えです」
フランス語で話しかけられ、まったくわからない晋作は今道晋九郎に聞く。
「日本からの連れが来ているそうです」
今道に言われてホテルのエントランスを見回すと、見慣れた二人がいた。
「ああ! お久しぶりですっ! どうしたんですか?」
今道はすぐに二人の方へ走っていって挨拶をした。
「久しぶりだね、晋九郎。……うん、まあそれは……晋作と一緒に、みんなで話そう」
晋作にとっても久しぶりの再開であったが、それが何を意味するかはすぐにわかったのだ。
■数日後、イギリス租界
イギリス租界では、パーシーとビルが逃亡の準備を進めていた。
彼らは、自分たちが追われていることを感じ、一刻も早く上海を離れる必要があったのだ。イギリス政府公認の免罪符も、渡航に必要な金は十分にある。
ただ、帰国の手配の報せがオールコックからまったくなかった。すでに二人は覚悟を決め、準備を進めている。
「おい、パーシー。準備はできたか?」
ビルが小声で尋ねた。
「ああ、いつでも出られる」
パーシーは大きな鞄を肩にかけ、緊張した面持ちで答えた。二人は裏路地を抜け、港へと向かう。
次回予告 第296話 『租界潜入』
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