文久二年十月二十七日(1862年12月18日) 横浜
上海から済生丸が横浜に寄港して1か月半がたったが、パーシーの葬儀はごく小規模に執り行われた。プロテスタント教徒であったために、オランダ人居留地より牧師を呼び、キリスト教式で行われたのだ。
口車に乗せられて悪事を働いたとはいえ、母国であるイギリスに戻れる訳でもなく、身寄りのない遠く離れた極東の地に眠るのは本意ではなかっただろうが、どうすることも出来なかった。
日本とイギリスの交渉はズルズルと間延びしたようになっており、決定打がないまま、イギリス側にとって取らぬ狸の皮算用のような賠償金の話が延々と続いている。
ニールが放った偵察により、済世丸から横浜診療所へイギリス人の患者が移送された事が判明したが、次郎が厳重に警備を命じたために、イギリス側は何の手出しも出来ず仕舞いである。
■イギリス公使館
「くそう! いったいどうすればいいのだ!」
駐日イギリス代理公使のニールはせっぱ詰まっていた。
生麦事件の交渉において、キーマンである発砲した2人が行方不明だったからこそ、日本側に賠償請求ができたのだ。当事者の2人が生きており、しかも日本側が確保しているとなれば、イギリスの主張は根底から覆ってしまう。
それどころか故意に事件を発生させ、日本側の大領主(島津久光)のプライドを傷つけた上に自国民を傷つけてしまった。
逆に日本側からの賠償請求や国際世論によるイギリスバッシング、大英帝国の権威を失墜させる大事件に変貌してしまったのだ。
「全く! なぜ私がこのような目に遭わなければならないのだ! こんなものはオールコック前公使が起こした事故ではないか! たまたま私が代理公使の時に起きた事件であって、私が責任を取らなければならない事ではないぞ!」
ニールは前任者への不満を爆発させたが、事態は変わらなかった。
確かにニールにとってはもらい事故のようなものである。しかし日本にとってはそんな事はどうでもいい。経緯はどうあれ、上海へ指示を出したのは彼であり、交渉の当事者も彼なのだ。
■横浜診療所
ビル・スレイターとアーサー・フィッツジェラルドは、それぞれ個室で療養していた。窓の外には、少しずつ賑わいを見せてきた横浜の街並みが広がっている。
ビルは窓の外を眺めながら、過ぎ去った日々を思い出していた。
(パーシー……すまなかった。お前を助けられなかった……)
ビルの脳裏に、パーシーの笑顔が浮かぶ。
パーシーはがさつな男だったが、いつも明るくどんな困難にも立ち向かい、勇敢であった。2人は金に目がくらんでしまったが、それでもビルにとってパーシーは唯一無二の存在だったのだ。
「Mr.ビル、気分はどうですか?」
一之進が部屋に入ってきた。
「先生……パーシーは……」
ビルは言葉に詰まった。一之進はビルの肩に手を置き、静かに言った。
「パーシーの死は、本当に残念だった。全力を尽くしたが助ける事ができなかった。……だが、今は生きている者のことを考えよう。君には、まだ未来がある」
「未来……」
ビルは力なく繰り返した。
「そうだ。未来だ。この事件の真相を明らかにし、パーシーの死を無駄にしないためにも、君は生きなければならない」
一之進の言葉は、ビルの心に深く響いた。彼はゆっくりと顔を上げ、一之進の目を見つめた。
「先生……オレは、真実を話します。全てを」
■神奈川奉行所
次郎はビルとアーサーの証言をまとめた報告書を読み、表情を険しくした。報告書には生麦事件の真相が克明に記されている。オールコック前公使の指示、発砲の経緯、そして上海への逃亡。
全てが次郎の読み通り、イギリスの陰謀だったのだ。
さらに次郎は、彦馬が撮影した2人の写真を使って周辺の聞き込みを行わせた。
その結果、事件当日に行列周辺にいた事や発砲した際の当事者である事、横浜港で上海行きの船に乗った事、その際の目撃証言がいくつも得られたのだ。
「これで、イギリスの言い分は完全に崩れました」
次郎は静かに言った。
「後は、どう動くかにございます」
「次郎よ、すでに如何にして幕を引くか、考えておるのではないか?」
「ほほう、それは是非に聞かせて貰いたいものよの」
大村純顕が笑みを浮かべながら言うと、大老安藤信正も純顕の発言にのって次郎を見た。
「は、然らば……」
そう言って次郎はポイントとなる事柄をあげていく。
・イギリスの日本に対する正式な謝罪
・関係者の処罰
・賠償金の支払い
・今後の国交に関する取り決め
「まずは公式の謝罪にございますが、これは当事者の証言と目撃情報によって、イギリス側は飲まざるを得ないでしょう。否定できる材料がまったくないのです」
「うむ」
信正が相づちを打つ。
「ここで重要なのは、この生麦事件の顚末を、日本の風土や慣習を知らない外国人が起こした事故、として終わらせる事にございます」
「どういう事だ?」
純顕が聞いてくるが、それはまったく分からないことを聞いているのではなく、自分の考えが次郎の考えと同じかどうか、すり合わせをするための質問のようであった。
「はい、ここでイギリスの悪事を公にし、さらし者にするのは簡単ではございますが、問題はその後にございます。この悪事が誰もが知ることろとなれば、イギリス憎し、攘夷を実行すべしとの風潮が大いに高まりかねません。先頃の対馬の儀は何とかなり申したが、此度は多くの人間が見ている事なれば、異国憎しの情が湧き起こるは必定にございます」
「それはまずいな」
信正が苦い顔をする。
「なればこそ、公式には謝罪をして貰わねば困りますが、この事件自体は単なる事故としておかねばなりませぬ」
信正も純顕もうなずく。
「次は関係者の処罰についてですが……オールコック前公使とパークス上海領事は公職追放。少なくとも日本に関する外交業務からは除外させましょう。ニール代理公使は知らなかった事とはいえ、最低でも謹慎程度は必要でしょう。イギリス本国における処罰を待たねばなりませぬが、少なくとも今後一切日本には関わらせないこと、渡航も禁止です。早急に新任の公使を要望します」
「うむ、して次は?」
「は、賠償金でございますが、これは落とし所を見つけるだけですので然程難しくはないでしょう」
「 「ふむ」 」
「最後に、今後の国交に関する取り決めですが、これは今後の日本にとって重要な点となります」
次郎は真剣な表情で続けた。
「生麦事件は、イギリスの陰謀によって引き起こされたとはいえ、我らの対応にも問題があったことは否めません。今回の事件を教訓に、外国との交渉における取り決めを明らかにし、再発防止に努めねばなりませぬ」
「うむ、蔵人の言う通りだ。この事件を機に、日本は大きく変わらねばなるまい」
純顕は決意を新たにしたように言った。信正も横でうなずいている。
「よし、では早速ニール殿に連絡を取り、交渉を再開しよう」
信正は立ち上がり、力強く宣言した。
■イギリス公使館
ニールは日本側からの呼び出しを受けて、奉行所へと向かった。交渉再開の報せにニールが不安を抱いていたのは、日本側が事件の真相を掴んでいることを薄々感づいていたからだ。
(一体、どう切り出そうか……)
ニールは考えを巡らせながら、奉行所へと足を踏み入れた。
「ニール殿、お待たせしました」
次郎が笑顔で出迎えた。その笑顔が、ニールには不気味に映る。
「早速ですが、本題に入りましょう」
次郎はニールを席に案内し、交渉を開始した。
次回予告 第302話 『日本とイギリス、そして島津久光』
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