文久二年十二月十一日(1863年1月30日) 川棚港
「兄上! あれっきりと申し上げましたよね! 弘化四年の砌、人は宝だと仰せになって、某に全国行脚を命じられました。これが最後だと! 某は信之介様のもとで学びたいと!」
そう言って半ギレ状態で欧州へ向かった太田和隼人であったが、川棚港で出迎えた次郎に対して、妙に神妙な面持ちである。
「おお~隼人! 息災であったか? ん、どうした? 少し背が伸びたのではないか?」
「兄上……某はもう三十八になります。いつまでも子供ではございませぬぞ。帰ってきて早々何をなさるのですか」
頭ポンポンをする次郎に対して諦めなのか何なのか。ため息をついて隼人は答えた。
「今さらですが某でなくても、彦次郎でも良かったのでは? あれは前にも言いましたが、大人しく閉じこもっている男ではないでしょう? 言い方は悪いですが、どちらかと言うと兄上似……龍馬と兄上を足して2で割ったような……陸軍も1年で辞めて海軍に移るような男で捉えどころがない……あ! 噂をすれば彦次郎!」
太田和次郎左衛門は42歳、隼人が39歳、彦次郎は36歳。兄弟3人がそろった。
「兄貴、息災で……」
「当たり前だ、ははははは……」
「それじゃあ、一杯やりながら話そうか」
川棚村は産業革命の影響もあり、城下の大村と変わらないくらい人口が増え、比例して繁華街も拡大していた。
「それで、どうだったヨーロッパは?」
今日は中華の気分だと言う次郎が中華料理屋に2人を連れて行き、隼人に聞いた。川棚は小規模ながら中華街もできているのだ。彦次郎は酒を飲み、つまみを食べながら聞いている。
「そうですね……ロンドンの万博では各国の珍しい物を見物しました。滞在中にはイギリスの鉄道や国会議事堂、バッキンガム宮殿、大英博物館、電信局、海軍工廠、造船所、銃器工場などを見てまわりましたが……」
「が?」
次郎は隼人の顔をのぞき込んで、もう一度聞く。
「見てまわってきたが、何か思うところはあったのか?」
「はい……」
隼人は酒杯を手に取りながら、静かに続けた。
「正直申し上げますと、向こうで見た物のほとんどは、我らが大村家中で既に作られておりました」
「ほう」
次郎がうなずく。
「理化学研究所の電力開発や医学方の成果などは、むしろこちらの方が進んでいます。電信網に関しても、国内の主要都市は既に結ばれておりますし、海底ケーブルによって蝦夷地からここ大村まで繋がっておりますから、イギリスと比べても遜色ありません。ただ……」
「兄上はまどろっこしい! もっとこう、ズバッと、単刀直入に仰ってくだされ」
彦次郎の横やりにムッとしながらも、隼人は続けた。
「ただ、規模がまるで違うのです。大村では大型船用のドックが川棚に3つ、横瀬に2つ、七ツ釜に2つございますが、1番大きな横瀬と七ツ釜のドックより大きなドックが、4つ以上1つの港にございました。複数の軍港、造船所があって全ては数えてませんが……」
隼人は少し間を置いて続けた。
「少なくとも鉄(銑鉄)の生産量は年間400万トン以上です。その一割が造船だとしても40万トン、その一割でも4万トン……。工廠の規模も工場の数や大きさは比較になりませぬ」
次郎はそれを笑みを浮かべながら聞いていた。
「で、あろうな。予測はしていた。ゆえにオレも新しきドックと軍艦の建造を上書しようかと考えておったのだ。樺太や対馬、そして此度の生麦と、やりたくない仕事が多かったゆえ、後回しになっておった」
「では如何なさるのですか?」
「まあオレは詳しい数字はお里みたいにわからんが、つまりは数を増やして生産力をあげねばと、上書するのよ」
生産効率も含めて、工業力の底上げを次郎は考えていた。
■京都御所
「岩倉もそうやし、大村の次郎左衛門もそうやが、結局は口だけとちがうか。公武合体を通じて公儀の力を保ちながら、朝廷の関与を強めて最後には公儀を倒し、お上を頂きとする新しい世の中を作る言うとったけど、一つも進んでおりまへん。対馬の件ではようやったと胸の空く思いでありましたが、此度はイギリスがこちらの言い分を全く聞き入れへんいう話どすな。やはり攘夷……攘夷しかおまへんな」
従三位権中納言の三条実美は、正四位下右近衛権少将の姉小路公知と密談をしている。
「関白の近衛様も公武合体には賛成してあらしゃいますから、お上が如何にお考えかを慮り、勅をもって攘夷をなすには、やはり此度のイギリスの傍若無人な振る舞いをもって、攘夷の大義とするより他ないでしょう」
「破約攘夷……」
実美がつぶやくと、公知は続けた。
「恐らくは蔵人次郎左衛門は、イギリスのみがそうで、他のフランスやアメリカは違うと申すかも知れまへん。然れど対馬の時はいかがであらしゃいましたか? ロシアだけが悪い言うたやあらしまへんか。ロシアも悪うイギリスも悪いでは、他の異国がええ国やと、何をもって言えるんどすか?」
「そのとおりでありましゃるな」
三条実美と姉小路公知の朝廷内での暗躍が始まる。
■長州
「殿の五大老ご就任、誠にめでたい事ですね、先生」
「うむ、誠に喜ばしい事だ」
松下村塾に集まった元塾生や関係者の中には、松陰のほかに久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎などがいた。
「ところで先生、今後我が家中はいかなる動きをなすべきでしょうか。国難また国難、対馬の次はイギリスが賠償を持ちかけているというではありませんか」
「そうです、先生。開国は止むなし、然れどあまりにイギリスは横暴ではありませぬか? ここで退いてしまっては日本の魂をも差し出す事と同じではありませんか?」
酒の席で玄瑞が松陰に質問すると、桂小五郎も続いて質問した。
「玄瑞、小五郎、落ち着いて聞け。確かにイギリスの要求は横暴に見える。然れどここで感情的に攘夷を叫んでも、何も解決せん。大事なのは国力の差を冷静に見極めることだ」
松陰は静かに語り始めた。
「然れど先生、我が家中はもとより佐賀や薩摩、西国の有力な家中が大村家中に倣って富国強兵を行っております。かの大村家中では、既に軍艦十三隻を擁し、近々大型艦一隻が完成するというではありませんか。我が家中でも丙辰丸や庚申丸(帆船)はもとより、壬戌丸は蒸気スクリューで、おなじく蒸気スクリューの癸亥丸は大村にて建造中にございます」
「……ふむ。各家中の軍備が整いつつあるのは結構なことだ。然れど問題なのは、今の世の中の有り様だ。公武合体というが、朝廷は公儀の失墜を狙い、公儀は朝廷の力を利用する。各家中はそれぞれが己が道を歩み、誰も国のことを本気で考えておらん」
松陰は酒を一口含んでから、言葉を続けた。
「大村はひとつの家中だからこそ、あれほどまでの発展を遂げられた。然れど各家中がばらばらに動いておるようでは、たとえその一つ一つが力をつけても、外国の本当の脅威には太刀打ちできんのだ」
「では如何に……」
「今は動かずともよかろう。粛々と富国強兵に努め、いたずらに動かぬことじゃ。京都の公家からも攘夷の力添えをと言うてくるやもしれぬ。もとは長州は攘夷であったからの」
小五郎の質問に松陰は表情を引き締めた。
「よいか。絶対に軽々に動いてはならんぞ」
次回予告 第308話 『イギリス本国の外交指針』
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