文久三年八月二十二日(1863年10月4日)
八月十八日の政変は起きなかった。次郎の工作や諸々の条件の変化がなし得た事だが、水戸・長州・薩摩・土佐等々、日本全国の攘夷勢力の絶対数が減少していたのは確かだ。
昨年、一昨年と対外的な事件が続き、生麦事件はいまだ解決していない状況ではあった。
しかし、破約攘英を幕府が掲げた事で過激派の勢いをそぎ、彼らを納得させつつ国論を統一、すなわち開国して交易は行うが、害となるものは攘うという気運が高まったのである。
当然だが開国・交易を良しとしない勢力もあった。
それでも次郎やお里の働きで、市場に出回った商品や輸入した産品によって得られる利便性が、少なからず国民感情を和らげたのは事実である。
過激派攘夷志士も、振り上げた拳を下ろす大義名分を得たということだ。
「な、何ですとオールコック卿! それは本当ですか?」
オールコックの衝撃の発言に驚きの声をあげるジョン・ラッセルではあったが、パーマストンはすかさず次の質問をした。
「オールコック卿、それは何を意図したものですか?」
「もちろん、イギリスの国益を考えてのことです」
「国益? 自身の保身や出世欲のためではないのですね? 国益のために無法者を雇い威嚇射撃をさせた、と?」
パーマストンの問いにオールコックは答える。
「はい。英国は常に他国に先んじ、そして他国よりも優位に全てを取り仕切らなければなりません。それが大英帝国の帝国たるべき姿です。しかし日本においてはインドや清国に比べ他国と変わりがない。すなわちそれは我が大英帝国の負けであり、そうあってはならないのです」
「しかし! そのために邦人が犠牲になっても良いと考えているのですか?」
ラッセルは問いただす。
「もちろん、そんなことは考えておりません。そのようなこと、本来起きてはならないのです。起こるはずもありません。よろしいですか? 起きてはならないことを、日本は起こした。つまりはそのような野蛮な風習のある国は、改めなければならないのです」
「……」
「……」
オールコックの一件無茶苦茶に思える理屈に対して2人とも黙って聞いていたが、結局ある結論に達した。
「オールコック卿、この件は不問にします。あなたは休暇のあと駐日公使として日本へ向かってもらいます」
そうパーマストンが言うとラッセルも続く。
「本来であれば公職を解き、しかるべき罰を与えなければなりませんが、そんなことをすれば野党の思うつぼ。こちらの正当性を通すため、あなたは知らぬ存ぜぬで通していただく。よろしいか」
「結構です」
今年の2月(和暦)のことであった。
■イギリス首相官邸
「しかし、どれもこれも日本側の主張に正当性を与えるような証言と証拠ばかりですね」
上海と日本から送られてくる捜査報告書を読んで、外務大臣のラッセルはつぶやいた。
「ふふふ……。まあ予想していたとおりですよ。オールコック卿の告白通りですね。ではこれを国内向けと日本向けに仕上げればよい」
「仕上げる?」
パーマストンの返答にラッセルは聞き返した。
「最終的な我々の答えは決まっているのです。『事実無根だ』と。どんなに領事館や無法者の生き残りが事実を主張したとしても、それは状況証拠であって物的証拠ではない。それに対してSATSUMAがイギリス人に危害を加えた事実は、物的証拠として本人たちがいる。それは紛れもない事実だ。だからそれを野蛮な行為として世界に宣伝するのだよ」
「首相の最終的な方針には賛成です。その旨ニール代理公使にも命じていますが、そう上手くいくでしょうか?」
ふふふ、と笑ってパーマストンは返す。
「冷静に考えてみたまえ。アメリカにとってフランスにとって、ロシアにとってオランダにとって、互いに利害が対立することはあっても、日本に味方するのと、連合して日本の利権を貪るのと、どちらが得だろうか?」
「確かに……列強にとって日本に味方するメリットは少ないでしょう。むしろ、足並みをそろえて日本から更なる利権を奪う方が得策だと考えるはずです」
ラッセルはうなずきながら答えた。
「そのとおり。我々は絶妙な外交バランスの上で関係を保っている。もしも彼らが日本に肩入れするようなことがあれば、それが崩れるのだ。我が大英帝国を敵にまわす勇気が、はたしてあるだろうか。……少なくとも静観せざるを得ないだろう」
パーマストンは自信に満ちた笑みを浮かべた。
「しかし国内の世論はどうでしょうか? もしオールコック卿の関与を示唆する証拠が出てきたら……」
ラッセルの言葉に、パーマストンは軽く手を振った。
「それはない。オールコック卿いわく無法者とは口約束で、前金で渡し、成功報酬のやり取りも含めいっさい書面に残していない。ニール代理公使から上海のパークス領事への依頼文の中にも、我が国の関与を示唆するものはない。誰かがねつ造でもしない限り、でてくるはずがないのだ」
仮に……とパーマストンは続ける。
「仮にそのような証拠が出てきたとしても、『陰謀論』『反英勢力のねつ造』として片付けてしまえば良い。国民は、複雑な真実よりも、分かりやすい嘘の方を信じるものだ」
「なるほど……さすがは首相、抜かりのない」
ラッセルは感嘆したように言った。
「それよりも、です」
パーマストンは海軍からの情報を提示した。
『正確なところは断言できませんが、江戸湾を完全に封鎖するには最低でもフリゲート艦6隻、スループ艦8隻、そしてそれらを支援する小型艦艇が必要だと考えます。さらに、補給艦や病院船なども考慮すると、かなりの規模の艦隊が必要となるでしょう』
「これは……!」
「そうです。もはや封鎖作戦の戦力の域を超えています。排水量や火力の面では違いがありますが、軍艦の数で言えば清国との第一次戦争(アヘン戦争)と大差ない。これだけの戦力が必要だということです。また、キューパー提督はこうも言っている」
ラッセルの驚きの声に応えたパーマストンは続ける。
「これだけの戦力であれば、万が一日本の艦隊と海戦になっても負けることはない。ただし、これを戦争と位置づけるのであれば、本国からの支援は必須である。日本は清国とは違う、と」
「……」
ラッセルは考え込んでいる。
「それで、どうするのですか?」
「……さっきも言ったように、我々の答えは決まっています。議会で日本に対する制裁と、同時に開戦の決議を得るしかありません。しかしこれは何とでもなるでしょう。野党より我々の方が数は多い。紛糾はしても可決される。海軍には臨戦態勢をさせ、江戸に向かえる準備をさせるとしましょう。捜査が終わり議会で可決されれば、上海の艦隊を先発させ、本国からも援軍が出せます」
「わかりました」
次回予告 第316話 『薩摩と江戸と長州と』
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