第317話 『江戸の備えと江川英敏』

 文久三年十一月十二日(1863年12月22日) 

「はい、では大きく息をすって、吐いて~」

 韮山代官の江川太郎左衛門英敏は、父の後を継いで農兵育成・反射炉の完成・爆裂砲弾の作成などを次々に推し進め、それと並行して江戸湾の海防を担う大役を背負っていた。

 今日は月に1回の健康診断で、横浜診療所で長与俊之助の診察を受ける日である。

 父親の英龍は過労が原因で亡くなっていたので、英敏は深呼吸をしながら俊之助の指示に従い、診察台に座りながら、自身の健康管理の重要性を改めて実感していた。

「江川様、お体の調子は良好ですね。しかしお仕事の負担が大きいようですから、十分な休養を取ることをお忘れなく」

 と俊之助が諭すように言った。

「ありがとうございます。国防の重要性が増す中、休養も大切だと承知しております」

 英敏は微笑んでうなずいた。俊之助より2つ年下の25歳である。

「はい、ではレントゲンを撮りますね」

 指示に従ってレントゲン室にいく様子は、沿岸警備のために厳しい訓練を日々行っているようには見えず、柔和な表情で立ち居振る舞いもやわらかい印象を受ける。




「おう! 俊之助、太郎はいるかい?」

「御家老様! 今レントゲン室にいますので、終わったらまた診察室にくるように言ってあります」

「そうか。いやあ~俊之助、立派になったなあ……。俊達先生(長与俊達・俊之助の祖父)と一緒に研究所に遊びにきては、廉之助と一緒に走り回っていたのが昨日のようだ。廉之助はあの頃から子供っぽくはなかったが、俊之助は随分と大人になったなあ……」

 こんな話をするなんて、オレもオジさんになったなあと次郎は思いつつ、まじまじと俊之助を眺める。

「や、止めてくださいよ。その話は……。いつの話ですか」

 真っ赤になる姿はなんとなく昔の面影がある。

「あれからどうだ? ビル・スレイターとアーサー・ヘンリー・フィッツジェラルドと言ったか?」

「ええ」

「もう1年もたったから、今さら合併症? 後遺症などはないと思うが、どうなんだ?」

「問題ありません」

 ビル・スレイターは友人のパーシー・ホッグをイギリスに殺されたと恨み、アーサー・フィッツジェラルドは悩んだ末に日本側に立って証言をしてくれている。

 公式記者会見の後、完全に傷が癒えるのをまって、2人も記者会見をした。それが更にイギリス側を窮地に追いやることになるのだが、イギリスは依然として完全否定していた。




「ああ、これは次郎様」

 レントゲンが終わって英敏が診察室へ戻ってきた。

「おお、太郎。息災でなによりだ。実はお主に用があってな。御公儀も認めておるところだが、まずは診察を全部終えてくれ」

 次郎はそう言って立ち上がり、待合室で待つことにした。




 30分ほど待つと診察が終わったという連絡があり、英敏と別室で話すことになった。

「それで次郎様、それがしに御用とは一体なんでしょうか?」

「うむ、実はな、江戸湾の備えの事じゃ」

 次郎は英敏を見つめながら、ゆっくりと口を開く。

「太郎、お前も知ってのとおり、イギリスとの戦が避けようもない状況になってまいった。彼奴らがまず狙うとすれば、ここ江戸の内海に他ならぬ。然りとて台場の数々は軍艦の侵入と敵の上陸ばかりを気にかけており、敵が出船入船を封ずる策を講じれば、江戸の街はひとたまりもない。それは、分かるな?」

 英敏は次郎の言葉を真剣な面持ちで聞き入り、深くうなずいた。

「はい、承知しております。敵が江戸湾を封じれば、物の流れが滞り、江戸の民は飢えに苦しむことになります」

「よくぞ理解しておる。そこでじゃ、新たな策を講じねばならぬ」

 次郎は声を潜め、周囲を確認してから続けた。

「これは御公儀にも許しを得たことであるが、観音崎と富津の間に新型砲を備える事となった。これまでとは勝手が違うゆえお主にその扱いを覚えてもらい、兵を調練してほしいのだ。無論隊長格となるものは一緒に学んでもらう。よいか?」

「新型砲……にございますか?」

 英敏は興味深く聞き返した。従来の砲とは異なる未知の兵器に、期待と不安が入り交じる。クルップ砲にしろアームストロング砲にしろ、本邦初の後装砲であった。

 大村藩の領内の台場は全てクルップ砲に代えられ、艦載砲はクルップ砲とアームストロング砲である。

「ああ。クルップ砲もアームストロング砲も最新式の砲じゃ。射程も威力もこれまでのものを遥かに上回る。これがあれば、敵艦が江戸湾に近づくことすらできぬであろう」

 次郎は自信に満ちた声で説明した。

「クルップ砲……アームストロング砲……!」

 英敏は驚きを隠せない。

「敵が上陸しようと思えば必ずどこかの電信網にて捉えられるし、江戸湾奥深く入ろうとすれば大砲の餌食じゃ。それより外で出船入船を封じようにも、幅が広すぎてできぬであろう。太郎よ、お主には観音崎と富津の台場の指揮を頼みたいのだ」

 その言葉が英敏の胸に響く。

 英敏は重責に心が引き締まる思いだった。新型砲の導入は江戸湾の防衛において画期的な一歩となることは間違いない。しかし同時に、その運用には多くの課題が伴うことも理解していた。

「承知いたしました。必ずやそのお役目を成し遂げまする」

「うむ。本来ならば使わぬに越したことはないが、お主のその意気込みがあれば、必ずやなせるであろう」




 こうして大村藩産のクルップ砲とアームストロング砲の貸与・・が決まり、現物ができ次第陸軍の砲兵隊とともに観音崎へと送られる事となった。




 次回予告 第318話 『買収と江戸湾防衛並びに全体戦略会議』

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