第318話 『全体戦略会議とロシア』

 文久三年十二月二日(1864年1月10日) 上海 

「読みたまえ」

 イギリス東インド・清国艦隊司令官のサー・オーガスタス・レオポルド・キューパーは、副官に命じてイギリス本国の海軍省からの訓令を読み上げさせた。




 -議会において日本との国交断交並びに開戦の可決の後、日本の対応が変わらなければニール代理公使と連携して邦人の退避、並びに貴殿の裁量にて現地艦隊を用い行動せよ。また、同時に本国より応援の艦隊を派遣する。-




「……兵力の逐次投入など。しかしインドと清国の艦隊をすべて投入するわけにもいかない。副官、君の見立てた兵力が……現時点で日本に派遣できる限界かと思うが、どうだね?」

「はい、提督。7隻の蒸気式軍艦と3隻の補助艦艇が現時点での限度かと存じます。インド方面の海賊対策、アヘン貿易の護衛、清国沿岸の治安維持など、既存の任務もおろそかにはできません」

 キューパーは窓から上海の港を見下ろした。商船が林立する活気ある港の風景が、東アジアにおけるイギリスの利権の重要性を物語っている。

「副官、それでは君が前回提案した江戸湾封鎖の兵力に届かないではないか」

「はい。前回の分析では江戸湾の完全封鎖にはフリゲート艦6隻、スループ艦8隻、さらに支援艦艇が必要と申し上げました。現有戦力では確かに不足します」

 副官は海図を広げ、指で江戸湾の入り口を示した。

「しかし本国からの増援を待たずとも、限定的な封鎖なら可能かと。品川から深川須崎にかけての砲台は射程外から封鎖を実施すれば問題になりません。神奈川台場も同様です」

 キューパーは眉をひそめた。

「限定的な封鎖では意味がない。フリゲート艦6隻とスループ艦8隻、支援艦艇は現有戦力から捻出できないのか。太平天国の乱は下火であるし、インドも今のところ落ち着いている」

 副官は手元の報告書に目を落とした。

「太平天国の乱は確かに下火ですが、依然として上海・寧波・福州の各港での艦艇の常駐が必要です。また、アヘン貿易の護衛も重要な任務です」

「具体的な数字を示せ」

「現在、太平天国関連に4隻、アヘン貿易護衛に3隻、海賊対策に2隻が必要不可欠です。インドからの増援も望めません」

 キューパーは腕を組んで考え込んだ。

「では、やはり待つしかあるまい。兵力の逐次投入は愚の骨頂である。江戸湾を封鎖するにしても、二方面作戦だとしても兵力が足らんのだ。戦力において劣るとは思えないが、念には念を入れねばならん。援軍がくるまでさらなる情報を集めるように」

「ははっ」




 ■江戸城

「なんだ次郎、少しやつれたのではないか?」

「いえ、然様さようなことは……」

 本当は胃がキリキリするほど痛いのだが、やせ我慢だ。自分の分身が10人ぐらいほしいと考えている。

「薩摩と長州は如何いかがであった? ああそうだ、蝦夷地にも行ったのであったな」

「は、長州はなんの問題もなく。薩摩も少将様に得心(納得)いただいたので、つつがなく進みそうです。蝦夷地は松前様には話が通りやすいので、代理の者を向かわせました」

「そうか。それで……大村では修理はうまくやっておったか?」

 |純顕《すみあき》が参与として江戸にいる間は、城代として弟の利純(純熈すみひろ)が領内の統治にあたっている。

「ええ、それはもう。さすが兄弟と、領民の信望も厚く、滞りなく政務を執っておられます」

「そうか、ではわしに何があっても問題ないな」

「殿! ご冗談でも然様なことは!」

「ははははは! 戯れ言じゃ。気にするな」




「それでは、イギリスが国交を断絶、宣戦を布告し開戦となった場合を想定して、いかに動くか。それを論じたいと存じます。そのため、西洋式の用兵に詳しい太田和蔵人を呼んでまいりました。方々かたがた忌憚きたんのないご意見をお聞かせ願いたい」

 筆頭大老の安藤信正が発言した。

「ではまず蔵人よ、イギリスの戦力と想定される作戦について述べよ」

「はっ」

 信正の命に次郎は居住まいを正して全員を見、ゆっくりと話し始めた。

「はい。まずはイギリスの目的にございますが、これはわが国を屈服させ、賠償金を支払わせた後に条約を改正し、今後の通商を優位に運ぶことにございます。然すれば必ずしも武をもって海戦におよぶのではなく、まずは江戸湾を封じることによってわが国を締め上げようとするかと存じます」

「では、その封鎖作戦をつぶさに(詳細に)説明せよ」

「はい。それがしの見立てによれば、江戸湾の出船入船を完全に封じるには外海から内海へと通ずる最も狭き箇所、観音崎と富津の間に船を配す必要があるかと存じます。その数はおおよそ、大小合わせ十から十五は要りましょう」

 前田斉泰が眉をひそめる。

「十から十五隻とな。それほどの数が必要なのか?」

「はい。砲台の射程を避けつつ船の出入りを封じるには、どうしても射程外にて横長となり、網のようにして船の出入りを封ぜねばなりません。また御公儀の軍艦の対応もせねばなりませぬゆえ、同じ火力と考えれば、少なくとも三隻はそれに費やさねばなりませぬ」

 伊達慶邦が身を乗り出して聞いてくる。

「公儀の軍艦とな? では彼我の戦力は如何なのだ?」

「はい。御公儀の軍艦は観光・幡龍・朝陽の三隻にございます。対してイギリス海軍の兵力にございますが、仮に十五隻の軍艦となると、さきごろ上海から戻った者の報せによると、清国駐留の三分の二に当たり、治安維持や船団護衛等を考えると、とてもその数を出せるとは思えませぬ」

「では本国からの増援を待つまでは、大きな行いは成せぬということだな。その間に我々も備えを固めねばなるまい」

 島津忠義は長く沈黙していたが、ようやく口を開いた。

「然にそうろう(そうです)。ゆえにイギリス海軍が動くとすれば、援軍の到着を待って大挙江戸へ押し寄せるか、または到着前に別の作戦を実行するか、または援軍到着後に違う作戦を行うか、という事になるかと存じます」

 次郎は一人一人の質問に答えながら、全体としての行動指針をまとめようとしている。

「では次郎、その別の作戦とは何だと考える?」

「はい。一つは大坂湾の封鎖でございます。大坂は西日本の物資の集積港であり、江戸の消費量の七割が集積される場所。もう一つは馬関海峡の封鎖。江戸の米の約六割、ならびに蝦夷地や北陸の海産物を輸送する要衝でございます」

 純顕は説明を聞きながらずっと考えを巡らせていたが、その純顕の問いに次郎はすぐさま答えた。

「つまり、江戸湾を完全に封ずるには十五隻必要だが、大坂湾や馬関海峡なら、現有の十隻程度でも能うと?」

 前田斉泰が眉間に深いしわを刻みながら聞いてきた。

「然に候わず(違います)。大坂湾の備えは堺浦の北に八門、南に十八門の砲台がありますが、いずれも旧式のモルティール砲。馬関海峡も下関前田の砲台は射程が短く、いずれも射程外より封鎖は可能かと存じます。然りながら大阪湾は江戸湾と違い狭まっているところがありませぬので、封鎖には適しませぬ。今の戦力ならば……馬関が最も適しているかと」

 安藤信正はせき払いをした。

「では、つぶさに策を論じよう。まずは江戸湾を封じられた際の陸路での輸送路の確保について……」

 ・もし江戸湾を封鎖するなら15隻程度の戦力が必要。そのためにはイギリス本国からの増援が必要。
 ・防備の面では大阪湾が手薄だが、海域が広いので封鎖には不適。
 ・馬関海峡は少数の兵力で封鎖が可能で、封鎖による効果は江戸湾の6~7割。
 ・現有戦力で馬関を封鎖しつつ、本国艦隊と合流し江戸湾へ向かうか、上海で完全に合流して大挙江戸に向かうか……。




 着々と対英戦略が練られていったが、次郎はイギリスが起こすのは単に軍事行動であり、『戦争』として行動しないことを祈っていた。




 ■数日後 箱館 駐日ロシア領事館

「ほう……これはまた、珍しい。何かの交渉ならば、ぜひお手柔らかに願いたいものですな」

 駐日函館ロシア領事のヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチは、決して良い思い出とは言い難い相手と、再び交渉することになった。




 次回予告 第319話 『各国への根回しと交渉』

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