文久三年十二月十一日(1864年1月19日) 箱館
「ほう……これはまた、珍しい。何かの交渉ならば、ぜひお手柔らかに願いたいものですな」
駐日函館ロシア領事のヨシフ・アントノヴィチ・ゴシケーヴィチは、決して良い思い出とは言い難い相手と、再び交渉することになった。
「お久しぶりです、ゴシケーヴィチ領事。良い天気ですね……まあ、時候の挨拶と世間話は省きましょう。今回は貴国にとっても利益となる話を持ってまいりました」
笑顔でそう答える次郎に対してゴシケーヴィチも笑って応える。
次郎は箱館奉行の村垣範正と、松前藩家老の松前勘解由を伴って領事館を訪問していた。ロシアの動向は今後の日本において重要となるので、2人を同席させて探ろうというのだ。
もっともゴシケーヴィチは、樺太事件や対馬事件に際しては大国の威信にかけて交渉したので、高飛車ではあったが本来は慎重派である。暴走した海軍に振り回された感が否めない。
「昨年起きた生麦事件はご存じですよね?」
外交官として知っていて当然だが、あえて次郎は聞いた。
「もちろん知っています。あくまで新聞各社が報道している範囲ではありますが、薩摩の大名行列に無礼を働いたとして、イギリスの商人が傷を負わされた、という傷害事件ですね。謝罪や責任問題、賠償金について交渉が難航しているようで……」
ゴシケーヴィチは椅子に深く腰掛け、次郎の話に耳を傾けた。
「はい。イギリスはまったくわが国の主張に耳を傾けず、圧力をかけようとしています。そこで……」
次郎はもったいぶって間を置き、しばらくしてから続ける。
「貴国の利益というのは、アラスカの事です」
「アラスカ?」
ゴシケーヴィチは何の事かわからない。理解不能である。生麦事件から、なぜ帝国領アラスカの話になるのだろうか。そう思ったのだ。
「……そのアラスカが、わが国にとってどんな利益をもたらすというのですか?」
「そうですね。単刀直入に言えば、アラスカをわが国に売却していただけないかと」
「なに?」
ゴシケーヴィチは次郎の即答に対して、驚きのあまり思わず椅子から身を乗り出した。
「アラスカは遠すぎて経営が難しく、貴国にとって大きな負担になっていると聞き及んでおります。それに、アメリカ合衆国の北進政策により、いずれは領有権を巡って問題が起きかねません」
「……」
ゴシケーヴィチは眉をひそめた。確かにそのとおりであり、露米会社の経営は行き詰まっている上に毛皮獣も枯渇していたのだ。
「使途は私が口を出すことではありませんが、クリミア戦争の際は、イギリスに侵攻された場合のアラスカ防衛の困難さが認識されるようになったのではありませんか?」
必死に顔には出さないようにしたが、ゴシケーヴィチはギョッとした。
こいつ、なんでそんなことまで知っているんだ? バケモノか? と。
「……確かに。可能性としては考えられなくもありませんね」
「そこでわが国が購入することで、貴国の利益にもなりますし、領土問題からも解放される。良い事ずくめではないでしょうか?」
その後ゴシケーヴィチは次郎の言い分をじっくり聞いていたが、いくつかの疑問を投げかける。
「なるほど。……ではお聞きします。確かにわが国には利益がありますが、貴国にどんな利益があるのでしょう? 不毛の極寒の土地を買おうというのです、相応の理由があるのでしょう?」
「そうですね。まず、わが国も毛皮交易に参入したいと考えております。熊やカワウソ、黒|貂《てん》などの毛皮を始め、鮭などの資源、オットセイなども魅力です」
……真っ赤な嘘である。
本当は原油や石炭、天然ガス、金銀、亜鉛や鉛などの鉱山資源が喉から手が出るほど欲しいのだ。しかし今回に限って言えば、それも目的ではない。
今回の最優先事項は、ロシアにアラスカの購入の意図を伝え、その見返りに太平洋艦隊を南下させることで、イギリスを圧迫してもらうことである。
イギリスにとってロシアの太平洋艦隊など眼中にないほどに小規模であるが、ロシアが明確に極東においてネーバルプレゼンスを示したらどうだろうか?
ロシアの南下を警戒するイギリスとしては、心中穏やかではないはずだ。
それに日露は樺太と対馬の件で険悪になった経緯がある。
丸く収まったとは言え、良好とは言い難い。通商条約は結んでいるものの、生麦の事がなければロシアは日本からの信頼度は最下位のはずだ。
そうイギリスは認識しているはずである、というのが次郎のおもわくであった。
そこで、あくまで自然を装って壱岐対馬に入港したり、馬関や長崎へ寄港するのである。物資の補給や修理など、理由は何でもいい。もちろん、問題がおきないように十分に通達しておく。
「なるほど。毛皮交易の権益ですか。しかし、それだけのために莫大な資金を投じるとは思えませんが」
「領事のご懸念はもっともです。しかし、アラスカをわが国へ売却することに関しては、貴国の利益になることはご理解いただけるかと思います。また毛皮貿易や海産物も事実です。そして……」
次郎はそこでいったん話を区切り、ゆっくりと続ける。
「貴国の太平洋艦隊の軍艦を、イギリスの目につくように対馬や壱岐、馬関海峡や長崎に寄港させてもらいたいのです。名目は訓練航海でもなんでも良いのです。この意味は……お分かりになりますよね?」
ゴシケーヴィチは瞬時に意図を理解した。
ロシアにとって、利益はあっても損はない。訓練の航海の際に、偶然馬関海峡での戦闘に遭遇したり、偶然北上するイギリス艦隊と長崎沖で遭遇しても、問題ないのだ。
そして日本にとってはイギリスを牽制できる。
「ただ」
と次郎は念を押した。
「今回の事案は、ひとまず向こう1年といたしたい。将来的には日本も数多くの港を開くようになると思いますが、現状は難しい。しかし貴国との間での試金石になると思えば、十分にその価値はあるかと思います」
ゴシケーヴィチは声には出さないが、うんうん、とうなずいている。
正直なところ、740万ドルなんて大村藩はおろか、幕府とあわせてもそんな余裕はない。最終的に破談になっても、まったく腹は痛まないし、イギリスへの牽制ができればいいのだ。
「もちろん、売却に関しては本国の判断を仰がなければならないと思いますので急ぎはしません。領事ご自身は、個人的にはどうお考えですか?」
「……個人的な見解としては、興味深い提案だと思います。アラスカの経営は確かに困難を極めており、アメリカの北進も気がかりです。売却金額次第ではありますが、検討に値する案件かと」
ゴシケーヴィチはしばらく考え込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「ただし」
とゴシケーヴィチは続ける。
「仰るとおり、これはペテルブルグでの決定事項になります。私には決定権がありません」
「もちろんです。拙速は避けたいと思います。しかし訓練航海に関しては誰に憚ることもないので、問題ないのではありませんか?」
「……そうですね。艦隊の動きについては、軍事行動でないのであれば艦隊司令官に権限がありますし、私から提案すれば賛成するでしょう」
「ではこうしましょう。売却交渉の可不可を問わず、寄港を認めます。これならば断る理由はないのでは?」
「そうですね、何の問題もありません」
次郎は内心で微笑んだ。これで残りはアメリカとフランス、そしてオランダである。
次回予告 第320話 『合衆国と連合国』
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