第693話 『天然痘ワクチンと北条氏規』(1582/1/29)

 天正十一年一月六日(1582/1/29) 純アルメイダ大学内研究室

 大学の研究室では様々な分野に分かれて研究がなされている。
 
 医学の分野に限って言えば、新薬の開発やワクチンなどだ。純アルメイダ大学の第一期卒業生である楢林朔玄さくげんは、同僚の高田次郎と一緒に日々研究に明け暮れてきた。

「次郎、この前また痘瘡とうそうで一人死んだようだな」

「ああ、赤痢に痘瘡に労咳ろうがいに、我らの敵はごまんとおるな……」

 抗生物質や抗ウイルス薬のない時代である。定期的な検診や、発見した場合に隔離するといった方法以外、蔓延まんえんを防ぐ方法がなかったのだ。

 キナの木を使ったマラリア薬や、柳の葉から抽出したサリシンなどは東玄甫らが開発していたが、まったくもって不十分であった。

「人痘法は確かに効き目があるが、百人受ければそのうち二人は亡くなっている」

 朔玄の言葉に次郎が答える。

「然様、我らはもっと危うくない術を見いだし、病を未然に防がねばならない」

「そこでだ次郎、いささか気になる事があるんだが、お主の考えを聞きたい」

「何だ?」

 次郎と朔玄は同期で研究のパートナーである。時にケンカもするが、切磋琢磨せっさたくまして開発に取り組んできたのだ。

「実は小耳に挟んだんだが、牛を飼って乳を搾り、それを売って生業にしておる村があるのだ」

「うむ」

 朔玄も次郎も、牛乳の効果はよく知っている。そのため毎朝飲んでいるのだ。小佐々の領内では、もう何年も前から肉食が解禁され、牛や豚、鶏などを飼育しては、食用としていた。

 卵や牛乳も同様である。

「その村では何年も前からなんだが、痘瘡と似たような病となっても決して重くならず、すぐに快方に向かって、痘瘡にはかからないそうなのだ」

 朔玄は言った。

「何? それは誠か?」

「誠だ」

 次郎の返事に対して朔玄は短く答えた。

「それが誠であれば牛の種、牛痘を人に移して弱い痘瘡にならしめ、快方に向かったならば、痘瘡の種を植えても病にはならぬという事ではないか」

 次郎はにわかには信じられないようであったが、なぜそうなるのか? という理由は後から調べれば良いこともある。

 例えば、人痘と牛痘は同じ病だが、牛痘は弱く人には感染するが重篤な症状にはならずに快方に向かう。そして病の根源は同じなので、体にその病に抗する力が宿って、人痘にはかからない。

 そういう理屈になるだろう。

「では、試してみようではないか。我らが求めているのはまさにそのような術で、人痘法に代るまったし(安全)甲斐甲斐し(効果的な)術だ」

 次郎の目が輝いた。
 
 朔玄の提案は、今までの研究に新たな希望をもたらしたのだ。上手くいけばこれまでより成功率を高め、安全な天然痘の予防法となるからである。

「つぶさには如何いかにして実験を進めるつもりだ?」

 朔玄は少し考えた後、口を開いた。

「まずはその村を訪ねねばなるまい。しかして牛痘の在り様を確かめる。如何にして村人たちが牛痘にかかり、如何にして痘瘡を防いでいるのかを調べるのだ。その後牛痘のうみを採取し、別の者に植えるのだ」

「その後は如何に?」

「その後は牛痘にかかって完治したのを確かめてから、人痘の膿を植える。無論これは危うい術ではあるが、何事もはじめはあるものだ。構えて(注意して)人を選び、体の在り様を密にりをせねばならぬ」

 現在でも天然痘の治療法はなく、早期には鎮痛剤の投与や水分補給、栄養補給及び気道の確保、発疹期には皮膚の衛生保持、発 疹に対する対症治療が中心となる。

 今世のこの時も、もちろん完全ではない。だからこそワクチンによる予防策を探しているのだ。

「分かった。村には私が行こう。つぶさに在り様を記し、なるだけ多くの報せを持ち帰る」

「ありがとう、次郎。君の協力があれば、必ず成功するはずだ」




 数日後、次郎は牛を飼っている村に到着した。

 村人たちは彼を温かく迎え入れ、牛痘についての情報を提供してくれたのだ。そして朔玄の予想通り、村人たちが実際に牛痘にかかった後、痘瘡に対して免疫を持つようになったことを確認した。

 村の見学を終えた次郎は、朔玄と共に慎重に被験者を選んだ。罹患りかんしていないのに、しかも牛の膿を体に入れるなど、簡単には信じてもらえるものではない。

 しかし二人は苦労して、家族を天然痘で失った者や希望者を探し、十分な補償と説明の上、実験に同意してもらったのだ。




 二人の研究は進展を見せた。

 次郎と朔玄は慎重に選ばれた被験者に対して牛痘の膿を接種し、その効果を観察した。結果は期待通りであり、被験者は軽度の症状を示したものの、痘瘡に対する強力な免疫を獲得したのだ。

「次郎、我らの研究は成した。これで多くの命を救う事能うのだ」

「その通りだ朔玄。これよりはこの術を広め、痘瘡の恐れから人々を解き放とう」

 こうして朔玄と次郎は、牛痘を利用した予防接種の効果を証明し、多くの人々に希望をもたらしたのである。彼らの研究は、未来のワクチン開発の基礎となり、医学の歴史に重要な一歩を刻む事となる。




 後日、東玄甫の確認の元、牛痘による天然痘の予防が公式に認められ、純正のもとへ知らされた。




 ■南近江 暫定新政府庁舎(安土城)

「これはこれは、ようおいでになった。内大臣にござる」

 新政府の大名議員が集まる中、北条氏政の弟氏規と、板部岡江雪斎が上洛し、面会を求めてきたのだ。
 
 新政府は形式上合議によって選ばれた総理大臣とも呼べる人物、純正が頂点となっていたが、各大名が服属しているわけではない。

 合議によって議題が発議され、可決されれば閣僚(肥前国の閣僚)によって会議が行われ、実施へとむかう。

「北条美濃守氏規にございます」

「板部岡江雪斎にございます」

 二人は小田原を出て海路で伊豆の長浜湊を経て駿河吉原の湊へ向かい、さらに遠江の相良湊、掛塚を経て尾張熱田へ到着。そこから陸路で政庁のある安土へと向かったのだ。

 まず、吉原の湊のにぎわいに驚いた。

 伊豆の長浜の湊は水軍の泊まり(拠点)なので比ぶべくもないが、商人や職人たちで賑わい、活気に満ちあふれていた。市場にはさまざまな商品が並び、商人たちの声が飛び交う。

「これは……」

「我が領内のいずれの湊も、かように栄えてはおらぬな。此度こたびの家中の定め、間違ってはおらぬ」

 江雪斎の言葉に、代弁するかのように氏規は答えた。二人のその気持ちは、各湊の賑わいはもちろん、整備された街道などを見るにつれ、ますます大きくなっていった。

「内大臣様、本日はお目通り叶い、誠に有り難く存じます」

「美濃守殿、そう畏まらずとも良い。わしは上座におるが、ここなる方々の主という訳ではない。あくまで合議で選ばれた仮初めの頭領にすぎぬ」

 にこやかに笑いながら話す純正に、二人は多少気分が晴れたようだ。

「我らは新政府に参画する意思を表し、これまでの遅れをお詫びに参上しました」

「詫びのお気持ち、確かに承った。新政府に参画していただけること、心強く存ずる」

 江雪斎の言葉に純正が穏やかにうなずきながら応えると、氏規は居住まいを正し、少し緊張した面持ちで述べる。

「我らの新政府への参画、お認め頂き感謝いたします。つきましては二つ、確かめたき儀がございます」

「なんであろうか?」

「は、まずは所領の安堵あんど。加えて転封などの仕置きのなき事、確かめたく存じます」

 ……。

 万座が静まりかえった後、純正の笑い声で静寂が破られた。

「は、ははははは。なんと……。心配には及びませぬ。ここな(ここにいる)方々で、然様な事になった方はおりませぬ。第一相模守殿はわが郎党でもなく、わしに服しておる大名国人でもないのだ。然様な心配はご無用である」

 氏規と江雪斎は、純正の言葉に安心し、安らぎの表情をみせるも、先のことはわからない。




 ともあれ、純正、いや新政府の対北条政策はいったんの終わりを見たのであった。




 次回 第694話 (仮)『新政府議員の諫早紀行』

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