第766話 『哱拝対魏学曽。石嘴山の戦い』

 天正十九年九月十七日(1590/10/15) |寧夏鎮《ねいかちん》

 天正十九年四月八日(1590/5/11)に魏学曽が|固原鎮《こげんちん》に駐屯して5か月がたっていた。

 哱拝軍と明軍の兵力を考えれば、明軍が倍以上であるがその士気は低く、仮に魏学曽の将としての能力が高かったとしても、簡単に勝てるような状況ではなかった。

 一方の哱拝軍も士気が高いとはいえ、いつまでも続くわけでもなく、どこかで決着をつけなければジリ貧となる。

 これまでの経過は、こうだ。

 4月
 魏学曽が固原鎮に駐屯を開始し、寧夏包囲を目指すも、哱拝は河西から玉泉までの諸塁を掌握し、民心も哱拝側に傾いている。さらに明軍は補給路の確保に苦戦し、進展が遅れる。

 5月
  明軍は依然として補給路確保に困難を抱え、包囲態勢を整えられないまま時が過ぎる。明朝は楊応龍の反乱の対応の必要があり、援軍を送れない状況に陥る。

 6月~7月
 梅雨により明軍の動きが鈍化。哱拝はモンゴル・女真との同盟を強化し、諸塁間の連絡体制も整備。対して明は長期駐屯で疲弊が進み、兵糧の確保も困難に。

 8月
 魏学曽が数度にわたる寧夏攻勢を試みるが、哱拝軍の迎撃に阻まれ失敗。明軍は小規模な戦闘を重ねて疲弊し、士気低下が進む。苗兵の逃亡も始まる。

 翌日、寧夏の城壁に立つ哱拝の表情は険しかった。東の空がわずかに白み始める中、側近の土文秀を呼び寄せる。

「魏学曽め、その後は固原鎮に籠もって動かぬか」
 
「はい。しかし、われらの斥候の報告では、明軍の士気は日に日に下がっているとのことです」
 
「そうであろう。だが、われらとて手を拱いているわけにはいかぬ」

 哱拝は城壁から東方を見据えながら、過去五ヶ月の戦況を思い返していた。

 確かに明軍は数で優れていたが、長期の駐屯で疲弊が目立ち始めている。

 一方、自軍は高い士気を保っているものの、補給には限りがある。このまま持久戦となれば、最終的には明軍は撤退することになるだろうが、補給に関しては自軍も同じである。

 また、敵を殲滅せよと士気の高まりからくる総攻撃の要望が高まっていたのだ。哱拝としては戦わずして明軍が条件をのんでくれれば良かったが、そうならない事は自明の理である。

 ならば、と完膚なきまでに明軍を叩きつぶす必要があった。

「文秀、今夜の計は準備が整ったか」
 
「はい。達慕児《だつぼじ》の精鋭五百、夜戦に長けた弓騎兵三百、そして火攻めの部隊二百が待機しております」

「うむ」

 哱拝は満足げにうなずいた。

 夜襲の計画は既に練り上げられていたのだ。固原鎮の明軍陣営を三方向から襲撃し、特に補給路と糧秣を狙う。兵糧を失えば退却せざるを得なくなるし、そうれなくても敵の兵力を大幅に減らせる。

 明軍の戦意を挫くには十分な作戦であった。

 その日の夕刻、魏学曽は固原鎮の本営で部下たちと会議を開いていた。
 
「敵の動きに変化はないか」
 
「特に変わった様子はございません。相変わらず城に籠もったままです」
 
 しかし、魏学曽の胸中には不安が渦巻いていた。兵士たちの疲労は限界に近づいている。夜間の見張りも、最近では緩みが目立ち始めていた。

 夜半過ぎ、新月の闇に紛れて哱拝軍の騎兵隊が動き出した。

 先鋭を務める達慕児騎兵は、馬の蹄に布を巻き、音を殺して進んでいく。彼らは三つの部隊に分かれ、それぞれ北、東、南東の方向から明軍陣営に忍び寄った。

 突如として夜の静寂を破る叫び声。
 
「敵襲!」
「火だ!」

 明軍陣営は瞬く間に混乱に陥った。

 北方からの襲撃部隊は、主に弓を射かけることで敵を撹乱。東からの部隊は、馬上から投げ込んだ火矢で糧秣倉を攻撃。南東からの部隊は、補給路を断つべく、輜重隊を狙って突っ込んでいった。

 魏学曽は素早く対応を指示する。

「第三、第四隊は北門を固めよ!」

「弓兵は後方へ配置転換!」

「水を運べ! 火を消すのだ!」

 しかし夜陰に紛れた敵の動きを正確に把握することは難しく、命令が十分に行き届かない。

 明軍の陣形は乱れ、各部隊は個別に応戦を強いられた。

 哱拝軍の騎兵たちは、明軍が態勢を立て直す前に次々と攻撃目標を達成していく。糧秣倉は炎上し、輜重の護衛隊は各所で混乱に陥った。徹底して戦略物資と補給路を狙い、正面からの戦闘は可能な限り避けたのだ。

 夜襲は約二刻(およそ4時間)続いたが、夜が明けるころには哱拝軍の騎兵たちは既に寧夏鎮への帰路についていた。

 残された固原鎮の明軍陣営では、倉庫のほとんどが焼失し、少なからぬ死傷者が出ていた。しかし、それ以上に大きな打撃は、兵士たちの士気の低下であった。

 翌日、哱拝は帰還した部隊からの報告を受けた。
 
「兵糧の約三分の二以上を焼き払い、輜重の護衛隊に大打撃を与えました」
 
「わが軍の損害は?」
 
「死者十七、負傷三十八であります」
 
 哱拝は満足げにうなずいた。予想以上の戦果である。しかしまだ、これで終わりではない。

 一方、魏学曽の陣営では緊急の会議が開かれていた。
 
「糧秣の損害は?」
 
「……ほとんどを失いました。これでは七日も持ちません。また、輜重護衛の将兵に多数の死傷者が出ております」
 
「補給路は?」
 
「一時的に寸断されましたが、既に回復させております。ただし……」
 
「ただし?」
 
「護衛の兵が不足しております。このままでは、次の補給も危うい状況です」

 魏学曽は深いため息をつく。

 なぜだ? なぜ負けるのだ? これも天命なのか。大樹の幹が腐っていては、枝葉の私がいかに奮闘しても無意味なのだろうか。

 物資の損害以上に、兵士たちの動揺が深刻である。

 夜襲による混乱と、仲間の死傷。そして何より、これほどの規模の部隊を持ちながら、少数の敵に翻弄された屈辱が、兵たちの心を深く傷つけていた。

「退却しか、あるまい」

 魏学曽は副官にそう告げた。

「しかしそれでは! 撤退命令はでておりません。軍紀違反として処罰されますぞ!」

「わかっておる。しかしこのまま補給を待ったとしても、いつ来るかわからん。兵の士気は下がる一方だ。ならばそうなる前に撤退し、次の機会を待つ方が上策であろう。わしは処分されるかもしれんが、兵の命は助かる」

「……承知いたしました。全軍に撤退準備に入らせます」

 その日、十八日は陣営の整理と撤退準備に費やされた。

 兵士たちには密かに伝えられたが、その噂は瞬く間に広がっていった。夜襲の傷跡生々しい陣営内で、ただでさえ低かった士気は、撤退という言葉で一層の下降を見せる。

 しかし、やっと帰れるという安堵感が兵士達を襲ったのは確かであった。

 十九日未明、魏学曽は軍を三手に分けた。
 
「先鋭隊は黎明と共に出立。本隊は一刻(約2時間)遅れで追う。殿は私が務める」

 しかし、魏学曽は知らなかった。

 既に哱拝の斥候が明軍陣営の様子を探っていたのだ。夜を徹しての撤退準備を見逃すはずもない。

「魏学曽、退却を決意したようです」
 
「退路は?」
 
「二つ。平坦な大路は距離こそ長いが安全。もう一つは狭隘な近道です」

 哱拝は地図を広げ、しばらく考え込んだ。

「普通ならば夜も明けきらぬのに隘路など通らんだろう。しかし疲弊した軍なれば、一刻も早くこの地から脱したいはず」
 
「はい。斥候の報告では、その準備に入ったとのことです」

 哱拝の作戦は練り上げられていた。

 狭隘な道の両側の高所に弓兵を伏せ、平坦な退路には火攻めの準備を施す。精鋭騎馬隊は平原の窪地に身を潜め、遠目から様子を窺わせた。

 明け方、予想通り魏学曽軍は狭隘路へと入っていく。疲れ切った兵士たちにとって、短い近道は魅力的に映ったのだろう。

「始めよ」

 合図の号令が響き渡ると、両側の斜面から矢が雨のように降り注いだ。

 狭い通路に詰め込まれた明軍はたちまち混乱に陥り、最前列の兵士たちは慌てて後退する。しかし、後続の兵士たちはなおも通路へ殺到し、兵士たちは入り乱れ、隊列は見る間に崩壊していった。

 通路から逃げ出す兵士と、通路入り口で待機していた兵士たちが入り混じり、もはや秩序など存在しない。四万の大軍は、統制された軍隊の姿を完全に失い、ただの烏合の衆と化したのだ。

「平坦路しかない! 全軍、わしに続け!」

 魏学曽の声が響く。彼は窮余の一策として、長い退路である平坦路への撤退を決断したのだ。

 その時、平坦路に仕掛けられていた火計に火が放たれた。

 前方に立ち昇る黒煙。慌てふためく明軍。魏学曽は退却方向全面が火の海になるのを見て、最後の決戦を挑むほかはなかった。

「全軍戻れ! 良いか! 退路は断たれた! 我らが生き残るには、哱拝の軍を打ち破るほかはない! 死中に活を見いだすのだ!」

 明軍は魏学曽の号令のもと、なんとかまとまって引き返し、哱拝軍と戦うが、もはやこの時点で勝敗は決していたと言って良かった。
 
「今じゃ!」

 待ち構えていた騎馬隊が、火に追われ右往左往する明軍めがけて一気に突撃を仕掛けた。疲弊し、混乱した大軍は、精鋭騎馬隊の前になすすべもない。
 
 戦いは瞬く間に決した。

 魏学曽は最期まで戦って討ち死。四万の明軍は、この一戦でほぼ全滅した。

 哱拝は戦場を見下ろしていた。

「魏学曽、良き将ではあったが……これも天命というものか」

 秋の澄んだ空気が、血に染まった戦場を覆っていた。

 次回予告 第767話『ヌルハチと揚応龍、そして純正』

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