第775話 『肥明戦争』

 天正二十一年二月二十四日(1592/4/6)  鴨緑江東岸 

「申し上げます! 観測班より伝令、敵に動きあり! 敵、渡河する模様にございます」

「ふむ、やはりこれを狙っておったか」

 現場は夜半から小雨が降っており、視界は悪くないものの、4月にしては寒い朝方であった。

「如何いたしましょうか?」

「変わりない。川岸へ出した部隊には敵が見え次第発砲し、適宜、退却して陣へ戻れとな」

「ははっ」

 軍団司令部の義弘から第1師団の歳久、第3師団の家久のもとへ伝令が向かう。

 ■鴨緑江西岸

 鴨緑江の西岸では、楊鎬率いる明軍16万が渡河の準備を進めていた。

「軍務様、雨は小降りではありますが、止む気配はございません。このまま渡河を強行してもよろしいのでしょうか?」

 副将の一人が楊鎬に尋ねた。

「問題ない。この程度の雨風で怯むようでは、明軍の面汚しだ。それにわしは、この時を待っていたのだ」

「? と、いいますと?」

「考えても見よ、いかに多くの大砲を備え、いかに多くの手銃を携えていても、雨が降っては使えぬ。いわば敵は両腕をもがれたようなもの。むろん無策という事はないだろうが、敵はわずかに4万。数の利を活かせば必ずや勝てる」

 楊鎬は自信満々に答えた。しかし内心では、敵の不気味なまでの静けさに一抹の不安を覚えていた。

「それに、敵は川岸付近に少数の兵しか配置しておらぬ。恐るるに足らず」

 そう言い聞かせるように付け加えた楊鎬であったが、内心では引っかかっていた。

(何故だ? 何故もっと兵を配置しない? 何か策があるのか? いや、まさか……)

 ■鴨緑江東岸

 川辺に布陣する西部軍団の兵たちは、息を潜め、対岸の明軍の動きをじっと窺っていた。

「敵、渡河開始!」

 斥候の報告を受け、歳久は静かに号令を下した。

「全軍、射撃用意!」

 間もなく、川面に姿を現した明軍の船団に向けて、一斉射撃が開始された。

 轟音と共に、雨に煙る鴨緑江に無数の火花が散る。

「うろたえるな! 盾を前面に出して進むのだ! 敵は少数! 怯むことはない!」

 楊鎬は前線の指揮官が発しているであろう命令と同じ命令を出し、士気を鼓舞する。

(なぜだ? なにが起きている? 雨の中でなぜ手銃が使えるのだ! ?)

 楊鎬の不安は的中していた。肥前国の陸軍の小銃は火縄(マッチロック)でもなく、燧発(火打ち石・フリントロック)式でもない。雷管を利用した管撃ち(パーカッションロック)式なのだ。

 現代の薬莢と比べればほど遠いが、格段に天候の影響を受けずに点火ができる。

「まさか……新しき銃を! 蛮族が持っているとは信じがたい!」

 明軍の将が驚愕の声を上げるが、小雨程度では発火に支障がない小銃の斉射を受けたのだ。明軍の狼狽は尋常ではなかった。

「撤退だ! 撤退せよ!」

 楊鎬の命令とともに混乱した明軍が退却しようとしたその時、兵士の一人が叫んだ。

「敵! 退いていきます!」

「なに?」

 すると次々に同じような報告が届いてくる。

「馬鹿な! 弾切れでも起こしたのか? 詳しく知らせよ!」

「伝令! やはり敵は退いております! この機を逃さず追撃するべきではないでしょうか?」

「……いや、そんな暇はない。わが軍はいまだ渡河し終わっていないのだ。しかし、これは僥倖であろう。急ぎ全軍に伝え、態勢を立て直して渡河を完了させよ、と」

 楊鎬はそう指示を出すと、一人考えた。

 どういう事だ? 弾切れなどあり得ない。

 そもそもあれだけの銃ならば、大部隊を展開させ、渡河中のわが軍を十分攻撃できようものを。なぜ小部隊なのだ? なぜ弾薬の補充もせずに、中途半端な攻撃で撤退するのだ?

 ■鴨緑江東岸 西部軍団本部

「前方部隊、撤退終了しました。敵軍、態勢を整えつつ、渡河を続けております」

「よし、狙い通りだ。このまま待機させよ」

 気球による観測部隊から逐一報告される明軍の状況を聞きながら義弘はほくそ笑む。

 木崎原、戸次川、耳川の再来か……。

 根っからの戦国武将である島津義弘の血がたぎる。4万対16万。4倍を擁する敵と対峙して、たぎっているのだ。

 そうは言っても16万の大軍である。数時間で終わるわけもなく、部隊を複数に分けても一度に渡っても数日から数か月かかるため、義弘は辛抱強く待つほかなかった。

 ■第1師団前線

「敵、船団を組んで、続々と渡河を開始しております!」

 斥候からの報告に、最前線で指揮を執る第1師団長・島津歳久は鋭い眼光で鴨緑江を睨み付けた。

「第一波攻撃隊、撤退完了! 敵は混乱している模様!」

 斥候が息を切らしながら報告する。

「よし。第二波攻撃隊、準備せよ。敵が渡河し終えたら、散発的に射撃を加え、再び撤退する。敵の混乱を維持するのだ」

 歳久は、冷静に指示を出す。

「しかし、あまり深入りすると、敵の反撃を受ける危険性があります」

 副官が懸念を示す。

「分かっておる。敵の動きを常に監視し、第一波と同じように適宜に撤退する。我らの目的は敵を殲滅することではなく、敵を上手く渡河させて、すべて渡河し終えるまでこちらの策を悟られぬようにする事だ」

 歳久は、兵士たちに念を押した。

 ■第3師団前線(撤退直後)

「敵の損害はどれほどか?」

 家久は、報告を待つ。

「まだ正確な数は分かりませんが、さほどの損害はないかと思われます。然りながら敵は態勢を整え、再び渡河を試みております」

「それでよい。よいか、油断は禁物だ。敵はすぐに態勢を立て直してくるだろう。引き続き、敵の動きを監視し、散発的な攻撃を加え、敵の混乱を維持する」

 ■鴨緑江東岸 – 西部軍団司令部(夜)

「……報告します。両師団とも、散発的な攻撃を数回実施。敵に一定の損害を与え、混乱を誘うことに成功しました」

 参謀が義弘に報告する。

「うむ。よくやった。これを敵の渡河がすべて終わるまで行う。一月かかるか二月かかるか……。歳久はともかく、家久が我慢できるかじゃが、してもらわねば困る」

 数百、数千ならいざ知らず、16万の大軍である。渡河にもそれなりの時間がかかるのだ。

 敵の渡河途中に攻撃をすれば、それは相応の損害を与える事ができるだろう。

 しかしそれでは、完全なる勝利ではない。ここで完膚なきまでに叩かなければ、朝鮮は安心して肥前国を宗主国とする事はできないのだ。

 次回予告 第776話 『海軍と朝鮮水軍と李舜臣』

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