天正二十一年三月十三日(1592/4/24)
暁と共に、3つの狭間で両軍の激突が始まった。
史憲誠にとって、この甲軍隘路の地形が極めて危険な戦場となることは明白だった。そこで彼は夜明けと同時に先鋒部隊を派遣し、慎重な姿勢を保ちながら前進を指示した。
だが福田正則はその慎重さすらも計算に入れていた。
渓谷の中腹、最も狭まった地点に伏兵を配置し、明軍の到来を待ち構えていたのだ。先鋒部隊がその地点に差し掛かった時、轟音と共にミニエー銃の一斉射撃が開始された。
「伏兵だ! 盾を構えろ!」
先鋒隊長は叫んだが、すでに遅かった。
次々と兵士たちが倒れていくが、史憲誠もこれを想定していなかった訳ではない。敵の銃撃が始まると同時に、防御しつつ全速で駆け抜けるように先鋒隊長に指示していたのだ。
史憲誠は先鋒部隊の報告を受けると、すぐに全軍に突撃突破を命じ、肥前国陸軍を無視して隘路を突破するよう指示したのである。
「全軍突撃! 隘路を出れば勝ちぞ!」
厳密には隘路を突破した事で勝利という訳ではない。側面には無傷の肥前国福田部隊があるのだ。しかし、この瞬間に兵士が欲しいのが『勝利』という言葉である事を史憲誠は知っていた。
史憲誠は自ら先頭に立ち、隘路へと突撃を敢行する。
「隊長! これ以上進めません!」
「なんだ! どうした!」
先鋒部隊長は部下からの報告を確認する。
「なにやら何重にもまかれた鉄の茨のようなものが道を塞いでおります!」
「取り除けぬのか! ?」
「できません! 少なくとも時間がかかります! そうやっているうちに手銃の餌食になります!」
「くっ! やむを得ん! |嚆矢《こうし》(|鏑矢《かぶらや》)を放て!」
■福田正則隊
「ふふふ、連隊長、敵は進めず、どうやら後退するようですよ」
「然もありなん。狭い隘路で左右から銃撃を受けたのだ。わかっていたとしても堪らんだろう。前には進めず、退くしかない。然れど後ろは詰まっておる。どうにもならんだろう。よし、攻撃を加えつつ敵を押し返せ。ここから先には通さん……ん? 何だあれは?」
正則は双眼鏡から見える明軍先鋒隊の異常に気付いた。
「申し上げます! 敵、二手にわかれ、左右の山を登ってきてございます!」
「なんだと?」
隘路、といっても周囲が断崖絶壁とは限らない。甲路、乙路、丙路ともに隘路の左右は急峻ではあるものの林となっており、登れない事はない。
そしていったん山中に入ってしまえば、鉄砲の最大の利点である遠距離射撃を封じる事になるのだ。
「応戦しろ! 山側にいる我らが有利である! 何としても押し返すのだ!」
■史憲誠軍
「申し上げます! 先鋒隊より|嚆矢《こうし》(|鏑矢《かぶらや》)にございます! 数は2本!」
1本なら後退、2本なら迎撃と、前もって決めていたことである。迎撃ならば隘路に留まって戦うはずがない。左右の山中に入って近接戦を挑むのだろう。
そう史憲誠は考えた。
「全軍! 左軍、右軍とわかれ山中を行く! 前方に敵がいることはわかっておる! 突き進み、肉薄して先鋒隊とともに敵を挟撃するのだ!」
史憲誠は事前の作戦通り軍を二手に分け、左右の山中を強行軍にて肥前国軍へ攻撃をしかける事にした。隊列は5kmに延びているので、先鋒隊と合流するには山中行軍で2時間半はかかる。
間に合うか?
■肥前国 第6師団司令部
師団司令部は泰川郡より北上し、3つの隘路が最初に合流する亀城市に設営が終わっていた。
「気球観測部隊より報告! 敵甲軍、先鋒隊左右に分かれ山中にて友軍と戦闘中、詳細は不明!」
「うん?」
後退したところで後続の部隊とぶつかり、隊列を整えたとしても行軍不可の事実は変わらない。であれば決死の覚悟で接近戦を挑もうというのか……。
敵の兵は2千から3千。鉄砲の優位がなくなったとなれば、消耗戦となる。長期戦は避けたいが……。
紹運は考えているが、報告を聞いて決断した。
「申し上げます! 観測部隊より報告、敵後続、隘路より消ゆ。さらに後方は見えず、山中に移動した恐れあり」
「いかん! すぐに伝令を送り大館郡の迎撃部隊に砲撃の準備をするよう伝えよ! 正則にも撤退するよう伝えるのだ! 隘路での挟撃は終わりだと!」
■福田正則隊
「くう……しぶとい! 兵糧不足で士気が低いと言っていたのは誤報であったのか? !」
「連隊長! 敵は死兵となっており、まともに戦ってはこちらの損害も多くなります!」
援軍が来ることが分かっている明軍は、ただの死兵ではない。ここで肥前国軍を倒さなければ先がない事実と、必ず援軍がくるという確固たる希望がさらに強くさせていたのだ。
「申し上げます! 師団司令部より伝令! 敵本隊山中を二手に分かれ進軍中とのこと! 速やかに撤退し、迎撃の準備をなせとの事にございます!」
「くそう! ここまで来て砲兵の助けを受けるとは……無念だが、致し方あるまい! 全軍撤退! 敵との戦闘は避け、撤退に重きを置くのだ!」
「ははっ」
副官は正則の命令を伝え、部隊は個々に退却していく。
■史憲誠軍 先鋒部隊
「帥長(2,500人部隊長)! 敵の反撃が止みました! 抵抗せず、山頂へ向かうでもなく、隘路向こうの平野へ逃げました!」
「良し! やったぞ! 追撃は注視し、敵の兵糧と武器弾薬を確保せよ!」
「ははっ」
先鋒隊長は、安堵の息を吐いた。予想外の苦戦ではあったが、ついに隘路突破に成功したのだ。眼下には、肥前軍が撤退していく姿が見える。
「負傷者の手当てを急げ!」
兵士たちは、疲労困憊していたが、隊長の声に励まされ、手際よく負傷者の手当てと物資の回収を始めている。
ほどなくして、史憲誠率いる本隊が到着した。
「よくやった、先鋒隊! これで、平壌への道が開けた!」
史憲誠は先鋒隊長の労をねぎらい、兵士たちの士気を高めた。
回収された物資は、予想以上の量である。肥前軍が遺棄した大量の弾薬と食料。特に食料は飢えに苦しんでいた明軍にとって、まさに天の恵みだった。
「これで9日分の兵糧が確保できた。さらに、この最新の鉄砲と弾薬があれば、今後の戦いを有利に進められる!」
史憲誠は、手にしたミニエー銃を眺めながら、高揚感を隠せない。この予想外の収穫は、今後の戦況を大きく左右する可能性を秘めていた。
一方、撤退した福田正則は、悔しさを噛み殺しながら、本隊との合流地点へと急いでいた。
「くそっ……史憲誠め、まんまとやられてしもうたわい!」
正則は自らの判断ミスを悔やんだ。
死兵がこれほどの強さを発揮するとは思いも寄らなかったのだ。鉄砲の一斉射撃に戸惑い、右往左往して判断に迷っている敵兵に、さらに鉄砲を撃ちかけ、隘路に死体の山を築くはずであった。
しかし、今は後悔しても仕方がない。平地に陣取り態勢を立て直すことが先決だ。
「急げ! 砲兵との合流地点まであと少しだ!」
正則は兵士たちを鼓舞し、進軍速度を上げた。
次回予告 第783話 『乙軍大将祖承訓の決断』
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