天正二十一年三月十三日(1592/4/24) 泰川郡北部
甲軍が隘路を突破したという知らせは、乙・丙両軍には伝わらなかった。甲路と乙路の間、現地点間の距離は13kmもあったからだ。部隊間の連携など、最初から明軍の作戦には入っていない。
3つの隘路を通り、それぞれが肥前国軍を突破する。これが明軍の戦術である。
「申し上げます! 敵は隘路に逆茂木や落とし穴などの罠を仕掛け、わが軍の進軍を阻もうとしている模様」
斥候の報告に祖承訓はうなずいた。
「敵は我らの進軍速度を落とし、持久戦に持ち込む構えのようだ。それは我らに不利となり、敵に有利となる。……副官、どうすべきか?」
副官は少し考え、そして口を開いた。
「将軍、敵の思惑通り持久戦に持ち込まれるのは避けるべきです。ここは奇襲隊を編成し、罠を破壊しつつ撹乱するのはいかがでしょう?」
祖承訓は目を細め、副官の提案を検討する。
「なるほど、奇襲隊か。敵の意表を突くには良い策だ。しかし奇襲隊が発見された場合の事も考えねばならぬ。敵陣の配置や兵力はどのくらいだ?」
「敵は隘路の1番狭い地点、この隘路は34里(約19.6km)ございますが、そのちょうど中ほどに陣を置き、左右の山から攻撃できるようにしております。その数約3,000。ゆえに我らは一師(師=2,500人)をもってこれに奇襲をかけ混乱させます。その間に南の山道、もはや道とも呼べぬ獣道にございますが、迂回して敵の背後に回り挟撃するのです」
副官は地図を広げながら説明を加えた。
祖承訓は副官が指し示す獣道を凝視する。
険しい山肌に、か細い線が引かれているに過ぎない。
「この獣道か……確かに敵の背後を突くには絶好の道だが、進軍は困難を極めるだろう。兵の疲労も懸念される」
副官は真剣な面持ちで答える。
「確かに容易な道ではありません。しかし奇襲隊が敵の注意を引きつけている間に、回り込んだ部隊で挟撃できれば、いかに敵が膨大な手銃を持っていたとしても関係ありません。長く円弧のように延びた本隊が駆け下りるように敵を背後から襲えば、さしもの敵もたまらぬでしょう。逆に言えば、短期決戦で敵を破るにはこれしか道がないと思います」
祖承訓は少しの間考え込み、決断を下した。
「よし、奇襲部隊と迂回部隊の二手に分かれ、敵を挟撃する!」
副官はすぐさま命令を伝えに走り去った。
「敵は、まだ来ぬか」
隘路の最も狭い場所の左右の斜面に陣取り、明軍の進軍を今か今かと待ち構えていた肥前軍乙路守備隊、連隊長の有馬伊賀守盛重は手持ち無沙汰であった。
「古来より寡兵にて大軍を打ち破るには地の利を活かすべし、とあるが、まさにその通りであるな。敵の当て所(目的)は平壌とはっきりしており、それを成すにはここを通って我らを潰さねばならぬ」
「然に候(その通りです)。隘路にてわが軍に地の利がある上に、鉄砲にて一網打尽にできまする」
副官と話していたその時に、偵察部隊からの報告が入った。
「申し上げます! 敵軍、隘路より消えましてございます!」
「なに! ?」
報告に一瞬驚いた盛重であったが、すぐに状況を把握した。
「明軍は退くこと能わぬのだ。然らば直進あるのみ。消えたのならば山中をくるに違いない。備えよ!」
「ははっ」
副官の返事とともに警戒態勢が全軍に伝わった。
■肥前国 第6師団司令部
「気球部隊より報告! 敵乙路部隊、隘路より消えましてございます! 詳細は不明なれど山中行軍の恐れあり!」
「あい分かった! 急ぎ盛重に伝えよ!」
肥前国陸軍第6師団司令部からは、気球部隊からの報告が随時該当部隊へ送られる。
「ふむ……乙路の敵軍の動きは、おそらく山中行軍だろう、という事だけか」
■有馬連隊
「申し上げます! 山中側面より敵の攻撃あるも、迎撃しております!」
「来たか! いかに奇襲とはいえ、来るのが分かっておれば奇襲ではないわ! 押し返せ! 我が連隊が武器の強さだけではないことを明軍に知らしめるのだ!」
盛重はそう副官に伝え、その檄は各大隊・中隊・小隊へと伝わっていく。
「連隊長、少しおかしくはありませんか?」
冷静に状況を分析していた副官の発言である。
「副官、何がおかしいのだ?」
「敵が弱すぎます。偵察の報告では万の軍が行軍しておりました。それが……いかに分かっていたとは言え、わが軍の側面部隊だけで処する事能うとは、解せませぬ」
盛重は副官の言葉にわずかに眉をひそめた。
「確かに……言われてみれば奇妙だな。敵は死兵となっておるのか? それとも我らの油断を誘うような偽りの戦い方か?」
「死兵にございます。鬼気迫る思いで打ち合っておりますれば、まず本気でございましょう」
「ふむ……まるで捨て石のような戦い方よの。何か裏があるのかもしれぬ……。全軍に警戒を強めよと……」
その時、伝令が息せき切って駆け込んできた。
「連隊長! 大変です! 敵の大部隊が、南側の尾根から……!」
伝令の言葉はそこで途切れた。彼の視線の先、南側の尾根には、無数の明軍の旗が翻っていた。
副官は驚愕の表情で盛重を見つめる。
「挟み撃ちです! ヤツらは陽動にございました! 少数で我らに側面攻撃を仕掛け、本隊は別の道より迂回していたのです!」
盛重は即座に状況を把握し、鋭く叫ぶ。
「罠か! まんまと嵌められた! だがここで潰えるわけにはいかん! 全軍に伝えよ! 迎撃しつつ斜面を下り、北側の斜面を駆け上がれ! 北側の部隊へ伝令を送れ! 迫撃砲の準備だ!」
命令は即座に各部隊へ伝達された。
肥前軍兵士たちは、南から押し寄せる明軍の迂回部隊に対して迎撃しつつ、素早く南の斜面を駆け下りていった。混乱の中にも統制のとれた動きは、日ごろの訓練の賜物である。
南の斜面を下りきると、今度は北側の斜面を駆け上がる。息も絶え絶えになりながらも、兵士たちは足を止めない。彼らの脳裏には、盛重の言葉が焼き付いていた。
『生き残ってこそ、次の戦いがある!』
一方、北側の斜面に陣取っていた肥前軍の部隊は盛重の命令を受け、迫撃砲の準備を進めていた。彼らは敵の出現を待ち構え、砲撃開始の号令を待っている。
「目標、南側斜面の敵部隊! 撃て!」
肥前国部隊が斜面を下りきって北側斜面を登り始めると、盛重の号令が響き渡った。
轟音と同時に迫撃砲弾が次々と明軍部隊へと降り注ぐ。明軍の迂回部隊は予期せぬ砲撃に混乱し、隊列を崩して統制がとれない状況である。肥前軍はこの機を逃さない。
北側の斜面を駆け上がった兵士たちは混乱する敵陣に向けて、一斉射撃を敢行したのだ。
遠方の明軍兵士には迫撃砲を、それをかいくぐって北側斜面を登ろうとする兵士には鉄砲を撃ちかけるという、明軍と肥前国軍の壮絶な戦いが始まった。
「くそう! 怯むな! 敵は目の前ぞ!」
祖承訓は必死に兵士を叱咤激励しながら態勢を立て直し、北側の肥前国軍へ一矢報いるべく奮闘している。兵力差で言えば明軍が1万で肥前国軍が3千。
接近戦を戦えば、数の優位で明軍が勝つ。しかし距離を保って大砲や鉄砲を撃ちかけてくる肥前国に対しては、死を覚悟して突撃するか、撤退するより他ないのである。
そして祖承訓は前者を選んだ。
というよりも、選ぶほかなかったのだ。
4時間半におよぶ戦闘の後明軍からの攻撃は止み、祖承訓は戦死して、生き残った者はちりじりになって敗走していった。
次回予告 第784話 『2万対3千』
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