文禄元年十一月四日(1592/12/7) 琉球王国 首里城
「肥前国が明に勝ったか……」
「予想はしておりましたが、やはり我らの決断は正しかったようです」
伊地親方の言葉に長嶺親方が同意した。伊地親方は事実上の行政のトップとなる三司官であった。
「肥前国への冊封をめぐっては反対もありましたが、こうして国が豊かになり、陛下の御代も安泰にございますな」
「うむ。これからは明との交易も朝貢ではなく自由にできるようになろう。肥前国のおかげで南方のバンテン王国やその他の国々とも交易が盛んになっておる。昔のように中継貿易で益を得る事は叶わぬが、それでも十分に潤っておる」
史実では薩摩に侵攻され、明・清と薩摩に二重に搾取される琉球国であるが、少なくともそれはなさそうである。冊封国である琉球と朝鮮は、明の暦ではなく日本の暦を使うようになっていた。
■黎朝
「鄭松様、明が肥前国に敗れたようです」
「ううむ、聞いてはおったが、衰えたとはいえ一度の戦で十六万もの明軍を滅ぼすとは……これは明との冊封も考えなくてはならんな。我が国は肥前国と交易はないのか」
純正は南方へ進出して以来、様々な国々と国交を結んで交易をしていたが、国情が不安定な国は邦人に危険が及ぶ恐れがあったために、必要最低限の交易に留めるよう命じていたのだ。
反対に同じ黎朝でも南部における阮氏政権とは富春を中心にさかんに交易を行っていた。
この時期ベトナムは南北に分かれており、北部では鄭氏(黎朝を再興するも傀儡としている)と莫氏(黎朝を滅ぼした莫朝)が争っていたのだ。
「は、残念ながら」
「……うむ、阮潢(グエン・ホアン)とは縁がないわけではない。肥前国との交易について渡りをつけよ。それから明の冊封は……うむ……潮時であるな。陛下(世宗・傀儡)にもそう奏上しよう」
「ははっ」
「……上手くいけば莫朝との争いにも優位に働くだろう」
黎朝の重臣である鄭松はニヤリと笑った。
■アユタヤ
王宮の豪奢な玉座の間で、ナレースワン大王は静かに報告に耳を傾けていた。
「まさか! 明が肥前国に敗れたか……」
あまりにも驚愕の事実に、その声は落胆の極みであった。
タウングー朝(ビルマ・ミャンマー)のバインナウン王が死んで急速に衰えたビルマを駆逐して、アユタヤ王朝の独立を勝ち取ったのであるが、肥前国に対しては否定的だったのだ。
そのためビルマがアユタヤを支配していた時期は肥前国との交易も盛んであったが、史実において日本を危険視したのと同様に、肥前国の台頭を危険視して、交易は制限されていた。
ナレースワンは明による中華秩序を望んでいたのだ。肥前国がスペインを二度も駆逐したのは知っていた。だからこそ警戒していたのだが、それでも明が敗れるとつゆほども考えていなかったのだ。
「陛下、肥前国はバインナウン王の死後、弱体化したビルマの各地で入植しており、沿岸部から内陸部まで進出する勢いです。このままでは……」
「……うむ。致し方あるまい。明とは手切れ……という訳ではないが、朝貢も考えねばなるまい。……肥前国に使節を送るよう手配するのだ」
「ははっ」
■女真 へトゥアラ
「やはりの。やりおったわ」
ヌルハチは報告を聞いて、鋭い眼光を放った。建州女真を統一し、海西女真を併合する一歩手前のところまで来ていたヌルハチは、明の弱体化は女真族の台頭につながると考えていた。
「これは、我々女真族にとって、千載一遇の好機となるかもしれない……」
ヌルハチの怒濤の進撃が始まった。
■朝鮮 漢陽
宮殿内の庭園では、色とりどりの花が咲き乱れ、秋の穏やかな日差しが降り注いでいた。
しかし宣祖の心には気がかりなことがあり、心は重かった。肥前国との交易は活発になり市場は賑わいを見せていたが、その繁栄の裏には大きな不安が潜んでいたのだ。
肥前国軍の駐留費用である。
「民の暮らしは上向いているようですが、民の表情は明るくないようですな」
宣祖の傍らに立つ柳成龍は、穏やかにそう言った。
親日派の柳成龍にとって、日本との交易拡大は喜ばしいことであった。しかし、今後の肥前国軍の駐留費用が民の生活を圧迫していくかもしれない現状を、無視することはできなかったのだ。
増税されるのではないかと、民の表情がそれを如実に表していた。
「うむ。交易は活発になっているが、駐留費用が国庫を圧迫していく恐れもある。このままでは、せっかくの好景気も長続きせぬ」
宣祖は、憂いを帯びた声で言った。
「日本との交渉は難航しております。彼らは、駐留費用は朝鮮側が全額負担すべきだと主張しております」
柳成龍は、難しい顔で報告した。
「鄭澈はどう考えておる?」
宣祖は少し離れた場所に立つ鄭澈に視線を向けたが、鄭澈は腕を組んで考え込んでいる。
「陛下、肥前国より冊封となれば、その費用負担は致し方ありますまい。明はそのようなことはありませんでしたが、今後も今回のように出兵や賦役を命じることでしょう。ここは我が国は冊封国、そして肥前国は宗主国であるという現実を踏まえ、なるべく我が国の国庫の負担にならぬよう、粘り強く交渉するほかありますまい」
鄭澈は力強い口調で言い、柳成龍もうなずいた。
■紫禁城
「なん、だと……このような事が許されるものか。呑めるはずないではないか」
顧憲成の報告を聞いた万暦帝は立ち上がり、叫んだ。
怒りと落胆と、様々な感情が混じり合い、複雑な顔をしている。
「なんとか、ならぬのか……」
万暦帝と顧憲成、そして沈一貫の長い夜が始まった。
次回予告 第790話 『降伏交渉、再び』
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