第790話 『降伏交渉、再び』

 文禄二年一月七日(1593/2/8)諫早城

「これはこれは、寒い中ようこそ来られました。冬の海は厳しゅうございましたでしょう」

 肥前国外務大臣の太田和利三郎政直は、明国全権の顧憲成を迎えて言った。

 部屋は石炭ストーブで快適な温度に保たれている。前回もそうであったが、顧憲成は肥前国の文明が明をはるかに凌駕している事を、来る途中に体感していたのだ。

「さて、如何でございましたかな? 我が国の要求は受け入れられますか」

 政直は、静かに顧憲成を見つめていた。

 会談室には緊張感が張り詰め、窓の外を流れる本明川のせせらぎだけが聞こえる。前回政直が提示した講和条件は、明にとって受け入れ難いものであった。

「太田和殿……熟慮いたしました。貴殿の提示された条件は、あまりにも過酷です。我が国が受け入れることは不可能です」

 顧憲成は、絞り出すように言った。声には疲労の色が滲んでいる。

「左様ですか。では、顧憲成殿のご提案をお聞かせ願えますか」

 政直は微動だにせず答えた。表情からは何も読み取れない。

「まず、領土の割譲は認められません。広州、寧波、天津はもちろん、他の港湾都市も我が国にとって重要な拠点です。これを割譲すれば、国経済は崩壊しかねません」

「ははははは!」

 顧憲成は必死に交渉の糸口を探ろうとしていたが、政直は笑顔で笑い飛ばす。

 その目は笑っていない。

「なんと……話になりませんな。和平交渉ではなく降伏の条件なのですよ。本来ならば交渉などあり得ぬ所を、殿下のお慈悲でこうやて某も時間を割いておるのです。無駄な話はしたくありませぬ。割譲がならぬなら、いったい何を差し出すというのでござろうか」

 政直の言葉は氷のように冷たく、顧憲成の心に突き刺さった。

 明の全権大使として国の威信を傷つけるような譲歩はできないが、肥前国の圧倒的な軍事力と経済力の前には、もはや抵抗する術も残されていないのも事実だった。

「まず、賠償金については、貴殿の提示された額の半分、永楽銭三百三十万貫文を支払うことを約束いたします。これは我が国にとって大きな負担となりますが、平和のためには必要な犠牲だと考えております」

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 まさにそうとしか形容しがたい表情をした政直は、目をつむりながら首をかしげ、ゆっくりと確かめるように言った。

「某の聞き間違いでござろうか? 貴国は我が国の要求である領土の割譲はしない、そのかわりに賠償金の半分なら出せると。もしそうならこの話はここで終わりにござる。何の罪もない無辜の民が、艦砲の餌食になるほかありませんな」

 政直の言葉は静かだったが、その中には底知れぬ怒りが込められていた。あまり舐めるなよ、と。

「お、お待ちください! 領土の割譲……についても、検討いたします。天津の割譲……はいかがでしょうか」

 顧憲成は苦渋の決断を下した。天津は重要な港湾都市だが、広州や寧波に比べれば、まだ妥協できる範囲内だった。

「おかしなことを仰せだ。我が国は広州・寧波・天津、そして泉州・|漳《しょう》州・福州・温州・杭州・上海・蘇州・膠州・登州・旅順等の港湾のうち3つを割譲と要求しているのです。なにゆえそれが天津ただ一港のみの割譲となるのか、まったくもって解せませぬな」

 勝者である政直の言葉は、論理的で冷静だった。感情的になることなく、淡々と事実を指摘する。その姿は顧憲成にとってさらに恐ろしく映った。

「……わ、分かりました。天津に加えて、杭州も割譲いたします。杭州は景勝地であり、経済的にも重要な都市です。この2つの都市でいかがでしょうか」

 政直はため息をついた。

「こんな事はいいたくないが、あえて言わせて貰おう。……顧憲成殿、あなたは馬鹿なのか? 認められないなら、それに代わる対価を提案しなければならないでしょう? なにゆえ6つの割譲から、ただただ2つに減るだけなのか」

「では……」

 顧憲成は必死で考えてきた譲歩案を、小出しにすることを考えた。領土の割譲はせめて広州・寧波・天津の3港に抑えたい。賠償金にしても660万貫文など、すぐに払えるはずがない。

 払うならば増税しかないが、間違いなく反乱が起きるだろう。

「関白殿下ならびに政直殿が仰せの中華秩序の破壊について、提案がございます」

「ふむ」

「広州ならびに寧波、そして天津の割譲は致し方ありません。ただし天津に関しては物流の要のため、代わりの拠点が築かれるまで便宜を計っていただきたい。加えて残りの港の割譲を譲歩していただく代わりに、琉球並びに朝鮮の独立を認める正式な声明を領国に送り、現冊封下にある国々に対しても、宗主権を放棄することを明記した文書を送付いたします。これで、いかがでしょうか」

 顧憲成は、意を決したように提案を口にした。広州、寧波、天津の三港の割譲は、明にとって大きな痛手となる。しかし、それ以上に重要なのは、中華秩序の崩壊を意味する冊封体制の放棄だった。

「ふむ……然れど琉球はすでに我が国が冊封しておりますし、朝鮮についても今年中に冊封の儀を行う事になっております。今さら貴国に認められようが、大して利はありませんが……」

 政直は、顎に手を当てて考え込む素振りを見せた。

「そうでしょうか? 古今東西、小国が大国に対して独立を宣言することはあっても、逆に大国がそれを認めた例はありません。さらに肥前国の国威によって明がそれを認めるとなれば、肥前国の強さを喧伝することにもつながります。また、我が国は女真やタタール、オイラト、アユタヤや黎朝、阮氏らの国々にも、同じ声明を出す準備があります」

「ふむ……」

 女真は独立を宣言し、モンゴル民族のオイラトやタタールは哱拝と共に反旗を翻しているが、公式に冊封を解く事を宣言すれば、名実ともに独立国となるのだ。

 東南アジアの国々も同様である。

「なるほど……」

 政直は考えている。

 確かに明のお墨付きを貰わなくても、事実上朝鮮と琉球は肥前国の冊封国であり、問題はない。ただし中華秩序は根強く残っているので、正式な声明を得る事で交易も含めた利益が見込めるのだ。

「よろしいでしょう。朝鮮ならびに琉球に対しての宗主国の権利を放棄、ならびに他の国々に対しても同様の通達を行う。しかし、正式な謝罪と誓約をしていただきたい。貴国の皇帝陛下には屈辱的かもしれぬが、できようか?」

「……善処いたします」

「あとは……賠償金ですな。ああそれから、この交渉で決まった事、講和条約とでも申しましょうか。その旨を全ての国々に文書で通達する事も加えていただこう。別に認めてもらわなくても我が国の領土は不変であるが、台湾を含む全領土に対する領土要求の永久の放棄、及び肥前国全領土の承認。これも要りますな」

 顧憲成は黙って聞いている。割譲する港を3港に抑えるために、できるだけの譲歩だ。

「賠償金は如何か?」

「はい、それについては660貫はあまりにも多額、支払う事は難しいので、減額をお願いしたい」

「減額は無理でござるな。これは我が国の戦費であるゆえ、貰えなければ損となる」

「ならばせめて、1回ではなく10回にて支払い事をお願いしたい」

 顧憲成はすがるような思いで政直に懇願した。

 660万貫文という巨額の賠償金を一括で支払うことは、明の財政にとって致命傷となる。

「……顧憲成殿。貴殿の申し出は理解できます。しかし我が国としても賠償金は一日も早く受け取りたい。分割払いを認めるのであれば、それ相応の条件が必要となります」

 政直は少しの間沈黙した後、ゆっくりと口を開いた。

「条件に関しましては、次の事を考えております」

 顧憲成は紙に書いた条件を政直に見せた。

 ・保有艦艇数の制限及び合計排水量の制限、最大排水量の制限並びに主砲口径の制限及び合計搭載主砲数の制限、保有弾薬量の制限(海軍、民兵の制限)。

 ・指定する地域の一部及び全てにおける保有陸軍数の制限及び保有小銃数の制限、保有小銃弾薬量の制限並びに大砲口径の制限及び合計保有大砲数の制限、保有大砲弾薬量の制限(指定地域の一部及び全てにおける陸軍、民兵の制限)。

 ・上記の制限に関しては随時見直しを行う。また、上記に関する査察を年に一度行い、違反した場合は宣戦布告に準ずる行為とする。

「ほう……これはまた……。よろしい、持ち帰って協議しましょう。ゆるりと休まれよ」

 政直はそう言って顧憲成にねぎらいの言葉をかけたが、心安まるわけがなかった。

 次回予告 第791話 『条約締結と新しい秩序』

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