文禄二年五月十一日(1593/6/10)
明国から割譲された広州、寧波、天津の3港は、海西地方として肥前国に組み込まれた。総督府は広州である。居住民に関しては向こう2年の間は自由とし、その間に肥前国籍とするか明国籍とするかを選ばせた。
「おい! 見てみろよ。天子様が戦に負けて、倭国の王が治めるらしいぞ! なになに……」
広州港の広場にある掲示板には、次のようなことが書かれていた。同様の掲示板が広州中に立てられているらしい。
布告
元明国広州府居住の皆様へ
この度、広州府は講和条約に基づき、肥前国の一部として編入されました。つきましては、皆様に下記の事項をお知らせいたします。
1.国籍の選択について
今後二年間の猶予期間を設け、この間に皆様には肥前国民となるか、明国への帰国を選択していただけます。
肥前国への帰化を選択された方には、土地の所有権や商売の権利など日本人と同等の権利が保障され、明国への帰国を選択された方には、安全な帰国のための支援をいたします。
2.新政権について
広州府の統治は、肥前国(日本)の法と制度に基づいて行われます。広州には海西総督府が設置され、治安維持と行政を執り行いますので、ご安心ください。従来の法律や慣習は、新法と矛盾しない範囲で尊重されます。
3.税制について
新政権下における税制は肥前国に準じますが、後日改めて公布いたします。公平で透明性のある税制を構築し、皆様の経済活動を支援していく所存です。
4.言語について
公用語は日本語で、広東語は第二公用語です。公的な告知や通達は全て日本語と広東語で発表され、言葉の壁による不都合を最小限に抑えます。
5.その他
ご不明な点やご質問等ございましたら、総督府までお問合せください。新政権は皆様の安全と繁栄を第一に考え、尽力してまいりますので、ご理解とご協力をお願い申し上げます。
肥前国 広州総督府
附則
この布告は、文禄二年五月十一日より効力を発します。
「おい、何と書いてあるんだ? !」
「誰か読んでくれ!」
「帰化したらどうなるんだ?」
「税金が高くなったらどうしよう……」
「明国に帰る船はあるのか?」
「二年間……といっても仕事はどうなるんだ?」
「倭国の支配だなんて……冗談じゃない」
「新しい商売の機会……」
■旧明国広州府
「知府様どうなさいますか? 昨年の六月から肥前国と名乗る倭国の船が港を塞ぎ、民は物価の暴騰にあえいで暴動寸前となっておりました。それがようやく今年の二月に姿を消したと思ったら、今度は北京から勅使がやって来て、『広州府が倭人の手に渡った』などと……」
役人は気が気ではない様子だ。
「一体どういうことなのでしょうか。もし大明が倭国に負けたとなれば、私たちの運命はいったいどうなってしまうのですか?」
「……わからぬ。私は生まれも育ちも広州で、みんなの多くもそうではないのか? 今さら他の土地に行って何ができるというのだ。ここは身を任せる他はないであろう」
明確な答えが出せない知府の林志遠は、どうとでもとれるように発言するほかなかった。
「申し上げます! 肥前国臨時広州県知事ご一行様がお越しになりました」
「なに? 肥前国の……臨時広州県知事? ……はぁ、通せ」
林志遠は深いため息をついて肩を落としたが、広州府の役人たちも顔を見合わせ、不安を隠せない様子だった。
重苦しい空気が部屋を支配する中、肥前国の役人たちが堂々と入ってくる。これまでの明国中央の役人とは違う雰囲気をまとい、自信に満ちた表情である。
先頭の男が口を開いた。
「肥前国臨時広州県知事、問注所統景(53)と申します。これより広州の行政を我々が一時引き継ぎますが、知府殿、貴官の協力は不可欠です。速やかに必要な書類、帳簿、そしてこの地域の現状について報告してください」
統景の声は落ち着いたものであったが、その言葉には有無を言わさぬ力強さが込められていた。
「……とまあ、格式張った通達はここまでにしておきましょう。その……お茶でも飲んで話しませんか。広州は茶の産地ではないものの、全国から銘茶が集まっていると聞いて楽しみにしていたのですが……」
「え? あ……はあ、それでは準備させます」
なんだ? 茶だと? そうか。もてなせと言うんだな。その後宴席を設け、賄賂でも渡せと言ってくるんだろう?
林志遠はそう思った。
「くはあ~うまい。煎茶に抹茶、紅茶にコーヒーも美味しいが、やはり明の茶と言えば烏龍茶ですな」
「それは結構な事です。さあ、次はささやかながら宴席を設けさせていただきました。広州が誇る美女もご用意しておりますので、お楽しみください」
林志遠はニコニコと接待する。
「……? 知府どの、なにか心得違いをなさっておいでか? 確かに茶を所望したいと申したが、あれは喉が渇いていたからです。斯様な接待、某には分不相応にございます」
「いや……しかしそれは……」
いったい何だと言うんだ? 接待をしろと暗に命じたのではないのか?
林志遠は訳が分からない。
「ああ! 申し訳ない。もしかすると、これまでの中央からの役人はそうだったのでしょうか?」
「え? ……まあ、まずは宴席を設け、事ある毎に宴は開いておりましたが……」
やはり! と統景は思った。
「知府殿、今後斯様なお気遣いは無用にござる。むろん個人的なおもてなしは歓迎にござるが、公費を用いての接待は必要ござらぬ。さて……広州の実情にござるが、たが今はいかなる事の様(状況・事情)にございましょうや」
「は……ええ、まずは……。昨年の6月より貴国……いえ、肥前国の船が港を封鎖し、交易が途絶えたことで、民は物価の暴騰に苦しみ暴動寸前でした。それがようやく今年の2月に封鎖が解かれたと思ったら、今度は北京から勅使が来て、広州府が肥前国に割譲されたと……。一体何がどうなっているのか、全く分かりません」
林志遠は混乱と不安を隠せない様子で答えた。統景は静かにうなずいた。
「うべなるかな(なるほど)。混乱されるのも無理はない。然れば、民の暮らし向きはいかがでしょう? 食糧の蓄えは? 治安の悪化は?」
「はい。食糧の備蓄は、現状で2か月ほどと思われます。治安に関しても、封鎖中は比較的落ち着いておりましたが、今回の割譲の報で民の間に動揺が広がっており、盗賊の発生など、治安の悪化が懸念されます」
林志遠は嘘偽りなく、正直に話した。
「うむ。民の不安を取り除き、生活を安んずるのが我々の第一の仕事だ。明日、広州府の有力者、商人、そして民衆の代表を集めて、我々の統治方針を説明する場を設けたい。その準備を頼めますか」
「かしこまりました。すぐに手配いたします」
林志遠は深々と頭を下げた。
「ああ、それともう一つ。方々の中には、我らがこの広州を支配し、方々を追い出そうとしているのではないかと考えておられる方もいるかもしれませんが、それは全くの誤りにござる。それがしはあくまで仮初めの知事であり、広州の文化や慣習を壊そうなどとは微塵も考えておりません。我が国の法律や税制に従っていただけるのであれば、大きな問題がない限り、これまで通りの生活を続けていただけるはずです。この点について、明日改めてお話ししたいと考えております」
「承知しました」
次回予告 第795話 『新たなるアジアの秩序』
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