文禄二年八月七日(1593/9/2)
純正は明軍との戦いで捕虜とした将兵に3つの選択肢を与えた。
1.このまま日本に永住。捕虜ではあるが、収容年数によって待遇が変わり、最終的には日本国籍となる。
2.明に残している家族を肥前国へ移住させ、帰化させる。
3.明へ帰国させる。
明との交渉のなかで、隘路の戦いで捕虜となった肥前軍の将兵は返還するように決まったが、明軍の兵士の処遇については決まっていなかった。そのため純正は十分に明の将兵に肥前国を見せ、体験させた後に選ばせたのだ。
■肥前国捕虜収容所
捕虜というと尋問のための拷問や、劣悪な環境におかれて餓死したり病死したり、というイメージがあるかもしれないが、肥前国のそれはまったく違った。
3食出て労働は朝8時から午後5時まで。昼休憩が1時間あり、各1時間ずつ10分の休憩もあった。
「おい、何だこれは……」
明の捕虜の一人が、配膳された食事を見て目を丸くした。白米、野菜の煮物、焼き魚にみそ汁。捕虜の身でありながら、栄養バランスの取れた食事が提供されていたのだ。
「こんな豪華な食事、将校でも毎日食えるもんじゃねえぞ」
別の捕虜がつぶやく。彼らは粗末な食事や飢えに苦しむことも少なくなかった。肥前国の捕虜収容所での待遇は、彼らにとって想像を絶するものと言っても過言ではない。
「それにこの労働内容もだ。畑仕事や土木作業は確かに大変だが、過酷な訓練や命がけの戦場よりはずっとマシだ」
若い捕虜が言うと、周囲の捕虜たちもうなずいた。
収容所では、肥前国の文化や技術に触れる機会も多く設けられていた。さまざまな書籍や精巧な時計、ガラス製品や蒸気機関を使った動力機械など、明では見たこともない技術の数々に、捕虜たちは驚きを隠せない。
「こんな国が、なぜ我々を攻める必要があるのだ?」
一人の老兵が疑問を口にした。
「明は腐敗している。皇帝は政治を省みず、民は苦しんでいた」
彼の言葉に他の捕虜たちも考え込む。そして次第に肥前国への興味、憧れを抱くようになっていったのだ。
■北京
「なんと? 捕虜について話がしたいだと?」
万暦帝は顧憲成に向かって言った。
「しかし肥前国の捕虜となった将兵は速やかに送り返したではないか」
「いえ、陛下。肥前国が言う捕虜とは、我が明の将兵にございます」
「おお! ……いや、ただで返してくれるはずがない。なにか条件をつけてきたのか?」
顧憲成は困り果てた顔で言う。
「将兵に選ばせ、帰国を願うなら帰国させるというのです」
「馬鹿な事を申すな。生まれ育った故郷だぞ、帰りたいに決まっておる」
万暦帝は顧憲成の発言に反論するが、嫌な予感がした。
実は捕虜のほとんどが『家族が納得するなら移住をしたい』と申し出ているというのだ。帰国をしたいと希望したのは将校だけで、そのなかでも貴族の出であったり、比較的裕福なものだけが帰国を希望したのだ。
「これは……一体どういうことなのだ? 顧憲成」
万暦帝は驚きを隠せない。
「なぜだ? 生まれ故郷を捨てるというのか?」
顧憲成は肥前国から送られてきた資料を側近に渡し、万暦帝はそれに目を通す。
そこには捕虜収容所の様子が詳しく記されていた。清潔な寝床、栄養バランスのとれた食事、そして怪我や病気の治療の様子。さらに、識字教育や様々な技術訓練の様子も詳細に記されていた。
「捕虜たちは肥前国での生活に感銘を受けているようです。明では想像もできないような待遇を受けている上、努力次第で誰もが豊かになれる可能性があると語っている者もいるようです」
「捕虜をなぜこのように待遇するのだ。まったくもって理解ができぬ」
万暦帝はつぶやいた。
「肥前国では、技術革新が急速に進み、それが民衆の生活にも恩恵をもたらしているようです。彼らは書籍や精巧な時計、蒸気動力による機械、明では見たこともない技術の数々に触れ、その発展ぶりに驚嘆している。そしてそのような国でなら、自分たちにもより良い未来が待っていると信じているようです」
顧憲成は説明を加えるが、万暦帝の心の中は重苦しくなるばかりだ。
肥前国は軍事力だけでなく、文化、技術、そして社会システムの面で、明をはるかに上回っていた。このままでは優秀な人材が肥前国に流出し続け、明の国力は衰退の一途をたどる事になる。
「顧憲成」
万暦帝は静かに、しかし力強く言った。
「直ちに対策を講じよ。捕虜の将兵たちが明に帰還するよう、あらゆる手段を尽くせ。そして、肥前国の技術や社会の仕組みについても徹底的に調査し、報告せよ。明の未来がかかっているのだ」
「承知いたしました」
と顧憲成は答えたが、捕虜のほとんどが明へ帰国することはなかった。
■後日 紫禁城
「なに? 国境の策定だと?」
「はい。先日我が寧夏国の独立を認められた後、待てど暮らせど国境の策定にいたっておりませんので、我が国の要求をお伝えに参りました」
万暦帝は笑い、顧憲成と沈一貫も使者の口上を一笑に付した。
「策定も何も、既に決まっているではないか。いま占領している土地の境目が国境であろう」
「ところが我が陛下はそう仰せではありません。和平はなったが、いつまでたっても使者は来ぬ、国境もきまらぬでは話にならぬと、軍を率いて大同から宣府、開平衛まで向かっております」
「なに! ? 開平衛まで進軍しているだと? 馬鹿なことを!」
万暦帝の顔から笑みが消え、怒りに満ちた表情へと変わった。顧憲成と沈一貫も顔色を失い、事態の深刻さを悟る。
「まさか、和平条約を破棄するつもりか?」
万暦帝が声を荒らげると、使者は落ち着いた様子で答える。
「いいえ、和平条約は尊重しております。しかし国境が未確定の現状では、いつ紛争が再発するか分かりません。そこで陛下は将来の紛争を防ぐためにも、速やかに国境を確定する必要があると判断されたのです」
「ならば、なぜ先に交渉しなかったのだ?」
顧憲成が問いただした。
「交渉は既に何度か試みております。しかし明の朝廷からは満足な回答が得られなかった。そのため陛下は今回の行動に出られたのです」
使者は毅然とした態度で答えた。
まったく動じることなく、淡々と述べる使者の言動は、今の明の凋落ぶりを表しているようである。
万暦帝は沈黙した。哱拝の行動は明らかに明への挑発だったが、今の明には哱拝と戦う力は残っていなかった。既に多くの兵士を失い、国庫も空っぽだったのだ。
「貴様の要求は何だ?」
万暦帝は、低い声で尋ねた。
「わが国の要求は、永平府の北と山西省の北部地域を割譲していただくことです。具体的には、大同府、宣府鎮、そして開平衛を含む地域です」
使者は地図を広げ、要求する地域を示した。
「そんな要求、呑めるわけがないだろう!」
沈一貫が声を上げた。要求された地域は、明の北方の防衛線として重要な拠点だった。そこを失えば、北方の異民族の侵入を防げなくなる。
「北方の異民族の事をお考えならお気になさらず。オイラトもタタールも、我が王室と姻戚関係にありますので問題ありません」
要するにオレ達の国があるから異民族は心配しなくていいですよ、ということであり、明にとっては屈辱以外の何物でもなかった。
「分かった。しかし朝廷にて協議しなければならないので、時間をいただきたい。その間、開平衛の寧夏軍は動かないように願いたい」
「分かりました。では、良いお返事をお待ちしております」
一難さってまた一難どころか、明は亡国の危機に瀕していた。
次回予告 第797話 『楊応龍とヌルハチ、そして出兵へ』

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