文禄二年九月二日(1593/9/26)
「陛下、播州の楊応龍の使者という者が謁見を願いでております」
「何? 哱拝の次は楊応龍か? あやつには土司としての権力を認めたであろうが。まあよい、通せ」
連日の政務と内憂外患で焦燥していた万暦帝は、いらだちを隠せない。やがて楊応龍の使者が入室すると、万暦帝は冷ややかな目で見つめた。
「楊応龍からの使者とな。何用だ?」
使者は恭しく頭を下げ、楊応龍からの要求を伝える。
「わが主は貴州全土、四川、湖廣、廣西を領土として要求いたします」
「……は、はは……ははははは! 馬鹿なことを申すでない! 播州宣慰使は黄平・草塘の2安撫司と真州・播州・白泥・余慶・重安・容山の6長官司を管轄し、当地においての権限は相当な大きさであろう? 加えて今回の騒乱で江津・南川・合江、貴州の洪頭・高坪・新村、さらには湖広の四十八屯も楊応龍の治める地としたであろう! この上何を望むのだ! ?」
万暦帝の顔が驚きと怒りで歪んだが、使者は動じることなく続ける。
「わが主は、明朝の弱体化を見越してこれを要求しております。もし拒否されれば、武力行使も辞さない覚悟でございます」
「おのれ! 無礼千万! 斬れ! 誰かこやつを斬れぃっ!」
万暦帝は顔色を変え、使者を指差して怒りに震えながら怒鳴った。平時であれば臣下がおおっぴらに反乱を肯定し、それを認めて領土を割譲せよなどと言うことはあり得ない。
「陛下! お待ちください! 御使者殿、おって知らせるゆえ、別室にて待たれよ」
沈一貫は万暦帝に向かいそう言って、使者をひとまず退出させた。万暦帝は息をきらし、目が血走っている。よほどの屈辱と怒りを感じたのだろう。
「陛下、哱拝やヌルハチに比べれば、楊応龍は兵こそ多いが、御しやすいかと思われます」
万暦帝が落ち着きを取り戻したころ、沈一貫が発言した。
「何? 御しやすいと? ……申してみよ」
「はは」
そう言って沈一貫は話し始めた。
「まず哱拝でございますが、あれはもともとモンゴルから降ってきた将。オイラトやタタールとの結びつきも婚姻によってさらに強まっております。兵士の不平不満と民の声に推されて反乱をいたしました。ここにはヤツらなりの大義がございます。ヌルハチもまた、女真統一という悲願に向かって突き進んでおり、我が大明を共通の敵として哱拝と結び、肥前国と結んでおりました」
「うむ」
沈一貫は一息つき、万暦帝の表情を見ながら続ける。
「しかるに楊応龍はただ自らの力を欲し、他を切り従えているに過ぎません。五司七姓(黄平・草塘・白泥・余慶・重安の五司と田・張・袁・盧・譚・羅・呉の七姓)をはじめとした他の在地勢力の怒りはすさまじく、今は楊応龍に従っておりますが、四川巡按の李化龍などを将としてまとめ上げ、調略しつつ鎮圧に向かえば勝機はあるかと思われます」
沈一貫の提案を聞いた万暦帝は、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。
「なるほど。楊応龍は他の反乱勢力と比べ、弱点が多いということか」
「はい、陛下」
沈一貫が答えると顧憲成がつづけて進言する。
「陛下、現状では我が大明帝国の力が及ばぬ範囲が広がっております。全てを保持しようとすれば、全てを失う恐れがございます。今は何を残し、何を捨てるかを決断すべきときかと存じます」
万暦帝は頭をかかえ、重々しくうなずいた。
「では、具体的にどのような策を講じればよいのだ?」
「まず、哱拝の要求をある程度認めることで北方の安全を確保いたします。ただし、全ての要求を受け入れるわけではありません。ヌルハチに関しては当面放置し、なにか求めてくれば話を聞く程度でよいかと」
沈一貫が答えた。
「うむ。では楊応龍をどうするのだ?」
「はい。五司七姓の協力を得て楊応龍の勢力を分断することで、弱体化ができるでしょう。恐らくは楊応龍以外の全ての土司の力を得ねば難しいと思われますが、やらねば明の将来はありません」
「……わかった。では使者には適当に話を合わせて帰すがよい。協議するので時が欲しいとな。哱拝には山西省の太原府より北ならばよい、と提示するのだ」
「ははっ」
■肥前国 諫早
「殿下、満州国の使者がお越しにございます」
「なに? 満州国の?」
ヌルハチが後金を建国するのは全女真族を統一してからだが、海西女真を滅ぼして勢いにのっている今、一体何のようであろうか。純正はそう思った。
「通すが良い」
「ははっ」
「初めてお目にかかります、満州国王ヌルハチの臣下、グヮルギャ氏ヒュンドンにございます」
「これはこれは、遠路はるばるご苦労にござった。聞けばさきごろ海西女真をしたがえたとか。喜ばしい事この上ない」
純正は笑顔で答えるが、内心はヌルハチの真意を探っていた。この時期にわざわざ使者を遣わすとは、まさか交易をうんぬんという話ではないだろう。
「さて、せっかく来られたのだ。宴の用意でもいたそうかと存ずるが、まずは用件を伺おうか」
「有り難き申し出、感謝申し上げます。それでは我が主ヌルハチより、重要な願い入れを申しあげます」
「うむ」
ヒュンドンは丁重に頭を下げ、続けて話し始めた。
「我が主は、明の領土である遼東への進軍を計画しております。つきましては、貴国の協力を仰ぎたく存じます」
純正は表情を変えずに聞き入った。この申し出はいずれ来るであろうと予測はしていたが、女真の統一の前に明の領土への野心を燃え上がらせるとは……。
優先順位を定め、頑強な抵抗が予想されるであろう東海女真よりも、凋落いちじるしい明国領土へ進むという決断は間違っていない。
もし逆の立場なら自分もそうするであろうと、純正は内心思っていた。
「なるほど。遼東進軍とは大きな野望であるな。然れど我が国はつい先日まで明と戦っておった。ゆえに今すぐに再び明と敵対するのは約を違える事となり、難しい」
純正は慎重に言葉を選びながら返答した。
「もちろん、貴国の立場はよく理解しております。ですが明は今や内憂外患の状態。哱拝や楊応龍など、各地で反乱が起きております。この機を逃せば、二度と来ないかもしれません」
ヒュンドンは熱心に説得を試みたが、当然ながら純正の考えは変わらない。
「正直なところ、われらは明国の領土に野心はまったくないのだ。別にいらん。こたび戦とあいなったのは朝鮮の明からの独立と、わが国からの冊封を認めさせるため。その対価として港の割譲と賠償金をもらい受けたのだ。それに和平を結んで舌の根も乾かぬうちに破ったのでは、信義を問われる。今後わが国と本心から付き合おうという国がなくなるでな」
「承知しました。しかし、わが主を支援していただく方法は他にもあるのではないでしょうか。例えば武器や物資の供給、情報の提供などは可能でしょうか」
純正の言葉を聞いたヒュンドンは、少し残念そうな表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻った。純正は座っている椅子の肘掛けを指でトントンと叩いて考え、ゆっくりと口を開く。
「女真の統一のためならば喜んで支援いたそう。されど明国へ攻め入るなら話は別。これまで通り交易にて支援いたすが、武器弾薬はまかりならぬ。ヌルハチ殿が明の領土を得て国が豊かになる事と、我が国の利害が一致せぬ。いったいわが国に何の利があるというのだ?」
純正の言葉を受けて、ヒュンドンは慎重に返答した。
「殿下のご懸念はよく理解いたしました。確かに直接的な利益は見えにくいかもしれません。しかし、明の弱体化は貴国にとっても長期的には有益ではないでしょうか。例えば明の影響力が低下すれば、貴国の朝鮮半島での影響力が強まる可能性があります」
純正は一瞬考え込んだ後、ゆっくりと口を開いた。こちらが言わなくてもわからないかな? とでも言いたげである。
「朝鮮半島はすでに我が国の冊封下であり、影響下である。それに明は十分に弱くなっておるではないか。正直なところ、大陸を誰が治めようがオレには関係がないし興味もない。ただ、我が国に害を及ぼさないで欲しいだけだ。明はその尊大な態度と中華思想において自滅しておる。このままの状態が続くのならば、正直なところ、どうでもよいのだ」
「……」
しばらく沈黙が続いた後、ヒュンドンが声を上げる。
「確かに……。しかし、将来的な地域の安定という観点からも、我が国との友好関係は重要ではないでしょうか」
「であるから盛んに交易しておる……この話はしまいじゃ。さあ、宴といこう」
ヒュンドンは純正に押し切られ、宴の後、さしたる結果も出さずに帰る事となった。
「やはり、楊応龍は噂通りの男か」
「は、息子も放蕩息子で一国の主としての器量はありませぬ。周りはみな諫言もせぬ佞臣ばかりで、これは国として民の信頼は得られてはおらぬかと」
「長くはないか」
「は、いずれ自滅するかと存じます」
「あい分かった。では……」
次回予告 第798話 『再びの戦火』
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