文禄三年二月八日(1594/3/29)
李化龍の進軍の報を聞いた楊応龍の対応は迅速であった。
本拠地の播州を中心として各地の苗族と連携をとり、統治のために配していた親族や腹心に命じて迎撃させたのだ。当初、数では劣勢であった楊応龍であったが、地の利を活かした戦いで戦局は|拮抗《きっこう》していた。
しかし、10万の兵力差は如何ともし難かったのである。
対して李化龍の軍勢には肥前国と戦った将兵がおり、隘路の戦いで鹵獲した小銃や迫撃砲なども戦局を優位にさせたのだ。もちろん、肥前国の先進兵器を明国軍がコピーできたわけではない。
弾薬数に限りがあったものの、効果的にハッタリとして使い、火器のない弓矢で武装した苗族と楊応龍の軍勢を徐々に圧倒していったのだ。
「もはや、これまでか。はかない……夢であった」
楊応龍は播州城の最上階から眼下を見る。
建設途中の宮殿が目に入ったが、独立国家の夢と共に築き上げようとしていた宮殿は、今や半ば崩れかけていた。外では、明軍の鬨の声が獣の咆哮のように響き渡っている。
その夜、明軍は城門を突破して城内に雪崩れ込んだ。
明軍の攻勢に当初は共同戦線をはっていた苗族も次々に明に降伏し、楊応龍は息子と共に自決し、ここに4年に及んだ楊応龍の乱は終結したのである。
■翌月 諫早城
「そうか、楊応龍が死んだか」
純正は播州陥落と楊応龍の死の報告をうけ、静かにつぶやいた。大陸を3分割して統治させようという純正の目論見は失敗に終わったわけであるが、結果的に明の財政を悪化させ、国力を低下させられた。
明は寧夏国として哱拝に国土を割譲し、遼東の地では女真が勢いを増している。
「千方、大陸の様子はいかがだ?」
「はい、殿下。大陸の情勢は刻々と変化しております」
情報大臣である藤原千方の報告は私情を挟まない。意見を求められたとき以外は事実のみを伝える客観的なものばかりだ。
「楊応龍の乱の鎮圧により、明は一時的に安定を取り戻したように見えます。然れどこの戦いで財政は大きく悪化し、軍事力も消耗しています」
純正は静かにうなずきながら聞いていた。
「一方、寧夏国の哱拝は着実に国力を蓄えています。明から割譲された領土を礎に、周辺の遊牧民族との同盟関係を強化しているようですが、齢六十を超え、さすがに息子の哱承恩へと権力の委譲を図っているようにございます」
「ほほう? もうあまり先は長くないか?」
「確たる証はありませぬが、家督はすでにこの乱の前に譲っていましたので、あとはその礎を揺るがすことなく完全なる代替わりを目指し、様々な表向きの行事はすべて哱承恩が行っております」
「うむ、いま哱拝に倒れられては力の均衡が崩れるゆえな。いずれにしても明、寧夏、満州のいずれかに肩入れし、均衡を保つようにせねばならぬ。これからも逐一知らせてくれ」
「ははっ」
そう言って千方は姿を消した。
■紫禁城
「よくやった、よくやった李化龍よ!」
楊応龍の乱を鎮圧した李化龍は、万暦帝をはじめとした朝廷の文武百官から盛大な讃辞と共に迎えられた。
「陛下、この李化龍、微力ながら陛下のご期待に添えたことを光栄に存じます」
李化龍は深々と頭を下げ、喜びを全身で表している万暦帝に謁見した。その姿には勝利の誇りと同時に、疲労の色も見え隠れしている。
「李化龍よ、汝の功績は大きい。楊応龍の反乱を見事に鎮圧し、我が大明帝国の威厳を示したのだ。褒美として右僉都御史の位を与えよう」
万暦帝の言葉に朝廷の文武百官からは喝采の声が上がった。しかし、李化龍の表情には僅かな陰りが見える。
「陛下、誠に恐れ多き仰せでございます。しかし……」
「なんだ李化龍よ、右僉都御史では不足なのか?」
「いえ、そのようなことはございません。過分に遇していただき恐悦至極に存じます。しかし、楊応龍の乱は確かに鎮圧いたしましたが、その過程で多くの民が苦しみ、我が軍も大きな損害を被りました。また、財政的な負担も相当なものでございます」
万暦帝の表情が曇った。
「それに、遼東の情勢も気がかりでございます。女真族の台頭は看過できません。さらに、寧夏国の哱拝も……」
「わかった、わかった」
万暦帝は李化龍の言葉を遮った。
「その件については後ほど詳しく聞こう。今は汝の勝利を祝うのだ」
李化龍は再び頭を下げたが、素直に喜ぶことはできない。確かに勝ったが、新たに領土を得たわけでも賠償金を得たわけでもない。もともと持っていたものを失い、それを取り戻したに過ぎないからだ。
もうひとつ。
火縄を使わない手銃と、火槍などとは比べものにならない肥前国製の迫撃砲。
楊応龍との戦では、これほど心強い武器はないとも思った。これを真似て明国でもつくれば、寧夏国も満州国も恐るるに足りぬ。そう李化龍は思っていたのだ。
しかし李化龍のおもわくは早くも崩れた。播州攻めで従軍していた兵士に聞いたのだが、手銃の弾丸はなんとか作れる。銃本体も時間はかかるが、作れなくはない。
しかし、火縄を使わない着火部分がどうしてもできないというのだ。
それもそのはず。雷汞がなければ着火できないし、あったとしてもアラビアゴムがなければ危なくて実戦では使えない。明の科学力でそれを成すには、あと何年、何十年かかるのかわからないのだ。
それを当然のように膨大に製造し、戦線に投入できる肥前国の恐ろしさを知ったのであった。
次回予告 第801話 『洛中』
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