第106話 『鍋島直正の憂鬱』(1849/1/9)

 嘉永元年十二月十五日(1849/1/9) <次郎左衛門>

 石油の運上金の相場がわかった。

 石油96石(17,280ℓ・9千600升)で米48石(4,800升)分。今(嘉永元年)の米の相場だと、1石で銀89匁8分だから48石で4千310匁4分だ。1両が銀63匁8分5厘だから、約67両5分。
 
 ん? これ……もと取れるのか?

 今はこの比率だが、ペリー来航の翌年の安政元年あたりから米1石銀100匁を切らなくなって、明治維新の前の慶応三年には15倍の1,475匁にまで物価が上がる。

 くそペリーと言うべきか、くそ幕府というべきか。

 石油1升に換算すると……4千310匁4分÷9千600升=0.449(匁)になる。銀1匁が167文だから×0.449で約75文の運上金(嘉永元年)。ああ、ややこしい。
 
 米1石を1,475匁(慶応三年)で計算すると、7万800匁! ……÷9千600升で、石油1升で銀8匁1分2厘の運上金。

 石油1升でいくら以上で売れれば黒字だ?

 菜種油の半値なら、上値と下値の平均で1石あたり221匁2分5厘。これの1/100。2匁2分1厘……(1厘は尺貫法で1/100)。

 1升が2匁2分1厘。米と同じ値段(別の売買記録)で、1升150文。平均で銀1匁5分5厘……。

 げ! 赤字じゃねえか! 完っ全っに! 大赤字だ!

 いや、菜種油も高騰してる? 俺は再びぐるぐるぐるぐる、記憶の扉をあけてサーチする。おそらく俺の転生時の他の3人にはないチート? 能力だ。

 高値で3千73匁、安値で2千365匁。平均で2千719匁だから100で割って27匁1分9厘(尺貫法)で売れる。おお! 黒字だ!

 いや、待て待て。そもそもそんなに暴騰して庶民、いや庶民じゃなくても油を買うか? 石油は主に灯火として使われている。現代ならまだしも、この時代の人、寝るよ!

 米がこんだけ暴騰するんだから、油どころじゃない! 生活苦になるんだから!

 こりゃもう、絶対に、絶対にどがんかせんといかん(どうにかしないと)!




 松代藩は運上金という形ではなく、共同経営という形をとった。
 
 例えば松代藩が資金を3割出したら、利益の3割を配当するような形だ。雇用も生まれるし、初期投資費用は大村藩が最初に出して、利益がでてから返済してもらい、完済したら割合分の配分を渡す形となる。

 どう考えても松代藩にはメリットはあってもデメリットはない。それから、越後の油田の権益だけど、完全に権利の取得が難しいという訳ではなさそうだ。売りに出している場合もあるらしい。

 ただし、これは自分の土地に湧き出ている石油の池を買い取るだけなので、純粋な意味での鉱業権ではない。新たに試掘して採掘して販売するとなると、もう一手間二手間かかるようだ。

 嘉永五年(1852年)には柏崎に日本初の製油所ができる。
 
 その前に作って販売網を完成させておかないといけない。どっちにしても臭水(石油)は臭くて減りも早く嫌煙されていたが、それでも菜種油の半分の値で売れたのだ。

 あ! そういえば確か去年か一昨年、カナダで石炭から灯油をつくる方法が開発されたな。頼む、信之介。




 ■佐賀城

「兄上、反射炉の状況はいかに?」

 鍋島直正は、兄で佐賀藩執政(家老)の須古鍋島家13代当主の鍋島茂真しげまさに聞く。

「はい。翻訳がようやく終わり、一号炉の建設にかかったようにございます」

「おお、そうかそうか。して、いつごろ仕上がるのじゃ?」

「来年の夏ぐらいとみております」

 直正は大喜びで茂真の答えを聞いているが、当の茂真は真剣な顔をしている。

「いかがした兄上? これで来年には鉄の大砲ができあがるのか。異国の者が我が物顔をしておれるのも、今のうちじゃ」

「そう易き事ではないかと」

「いかなる事じゃ」

 直正の顔が曇る。

「なにぶん初めて造るものにて、職人も作事奉行もいかなる障りがあるかわからぬ、と申しております」

 一瞬けげんな顔になった直正であったが、すぐに気を取り直して言った。

「それはわかっておる。何事も初めはあるものじゃし、ある程度は時もかかると考えておる。重要なのはその一歩を踏み出したという事じゃ。それからに口惜しいのは大村藩じゃ。二年も前に作っておる」

 大村藩を口に出した途端に苦々しさがあったのだろうか、直正は続けた。

「わしは別に、大村藩の事を毛嫌いしておる訳ではない。ただ、石高でも我が藩の十五分の一ほどしかない小藩じゃ。……重ねていうが、下に見ておる訳ではないぞ。その大村藩が我が藩より早く反射炉を築き、鋳造して大砲をつくり、薬においては種痘を行っておる。いったい何が起きておるのだ?」

 史実で佐賀の伊東玄朴が種痘を実施するのは今年の6月であり、この種痘ネットワークは半年で京都・大坂・江戸・福井へ伝播でんぱするが、すでに大阪で緒方洪庵が種痘所を開設しているのだ。

 洪庵は昨年の十二月に大村藩を訪れて種痘を受け取り、一之進の医学のすごさに驚愕きょうがくするも現地で学ぶ事ができず、『Medische benodigdheden(医学必携)』の貸し出しを条件に、大阪へ戻ったのだ。

 それから半年、ちょうど今年の六月に除痘館を開設し、史実とは逆だが十二月の今、京都にも開設された。




「大村藩がそれだけの事をやってのけるのには、なにか秘訣ひけつがあるとは思うが、いずれにしても金がかかる。今我が藩の勝手向き(財政)はいかがなものか」

 鹿児島藩同様、佐賀藩もかなりの無茶振りで、商人との借金を55年払いにして無理やり財政の健全化を図っている。もちろん商人に対しても様々な特権を与えるなどしているが、質素倹約を旨として自ら率先して実践していたのだ。

「は。おおむね借財は整理し終えておりますが、今後入目(支出)も増えてくるかと存じます。今般の出島における貿易自由化にともない、洋書の輸入や様々なる産物・文物も入ってくるゆえ、我が藩の特産品を売り込むべく商館につかいをやったのです」

「うむ。兄上はさすがであるな」

 特産品としては、木ろう、陶磁器、茶、石炭などがある。

「されど……」

「いかがしたのじゃ?」

「石炭に関しましては、自由化以前よりこの日ノ本で販売しておりました。そこで出島を通じて和蘭にも販売をしようとしましたところ……」

「いかがした?」

「大村藩が膨大な量の石炭を売っており、今のところこれ以上要らぬとの事にございました」

「何い? またしても大村藩か?」

 直正の顔が引きつった。

「そればかりではありません。茶葉ならばそのぎ茶、陶磁器ならば波佐見焼と、先に売られてしまっております。こちらは茶にしても陶磁器にしても、品も違えば質も違いますゆえ、その違いを訴えていけばなんとかなると存じます。されどいかんせん会所時代から長崎屋や小曽根屋が商館員とべったりゆえ、切り崩すのが難しゅうございます。ゆえに、しばしときが要るかと存じます」

 自由化以前は会所と長崎奉行所とべったりで、自由化されても自由ではない、そんな状況であった。実際には自由なのだが、フロンティアメリットというか、早く手をつけ、膨大な数を売っているのだ。

「……こればかりは我が藩と福岡藩、そして大村藩のみに与えられた特権故、公儀(幕府)に訴えても詮無き事(無意味)であろう。仕方がない。反射炉や長崎の防備にばかり気をとられておったわ。時間がかかろうとも、切り崩すほかあるまい」

 おおっぴらに抗議もできない直正のストレスは、高まるばかりであった。

 次回 第107話 (仮)『石炭の掘削費用と石油の上総掘り』

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