第375話 『淀屋清兵衛の策略』

 慶応二年三月十五日(1866年4月29日) 江戸 加賀藩邸

「兵備輸入取締令? あの……あれは確か万延、いや安政六年に御公儀が出した法であったな」

 前田斉泰が思い出しながら牧田孫兵衛(淀屋清兵衛)に聞き直した。




『兵備輸入取締令』

 大名・家臣による軍艦・武器等の購入は幕府の許可が必要。

 購入希望時は老中に申請し、許可を得た場合のみ購入可能。

 幕府は国内の軍事力均衡を維持するため、必要に応じて許可を拒否・制限する。

 無許可で購入した場合は厳罰に処す。

 この法令は国内秩序維持のためであり、条約締結に伴い外敵がいなくなったため、幕府主導で国防を担い、諸藩はそれを補助する体制とするためである。




 ざっくり言えばこうだ。

「せやけどその後どないなりました? 樺太でのロシアの横暴、さらには対馬の占領やありませんか。イギリスにいたっては島津御家中の行列にわざと狼藉ろうぜきして、挙句戦をしかけてきましたんやで」

「ふむ、それで?」

 斉泰の言葉が静まり返った部屋に響いた。

 障子越しに差し込む月明かりが、座る者たちの表情を淡く照らしている。

「つまるとこ、この法はまったく役に立てへんかったんです。条約が成って外国の脅威が去ったとして定めたけど、まったく去ってまへん。それに一連の外国の攻撃に対処したのは大村の御家中であって、御公儀やおまへん」

「お主はいったい何が言いたいのだ」

 松平春嶽は顔をしかめているが、彼が政事総裁職に就任したのは取締令発布の3年後、文久二年(1862年)である。

 御三きょうのうちの田安徳川家の家柄で、英邁えいまいとの誉れ高く、久光らによる文久の改革によって総裁職として幕府の要職に就任した。

 改革して幕政を推し進めることに異議はないが、幕府を倒す孫兵衛の考えは相容れない。

 当然である。

「あの法は秩序の維持のためと書かれとるけど、ほんまはそうちゃう。そら皆様もようお分かりちゃうんですか?」

 孫兵衛の問いに、春嶽の眉間に深いシワが刻まれた。

「何が言いたい。はっきり申せ」

「あの法の本意は、皆様のご家中の武備を限り、比すれば御公儀の力を強めるためやったんちゃいますやろか?」

 孫兵衛の言葉に、部屋の空気が凍りつく。誰もが感じていながら口にできなかった真実を、あまりにも露骨に語ったからだ。

「皆様。考えてもみてください。外国の恐れが去ったから武備を限る? そんなアホな話がありまっか?」

 孫兵衛は畳に両手をつき、座る者たちを見回した。彼の目に宿る光はどこか狂気を帯びている。

 もっとも、ある意味で狂気がなければ、居並ぶ大名を相手にこれほどの言動はできないだろう。

「ロシアは樺太を占領し、対馬も狙い、イギリスは戦を仕掛けてきた。こないに非常なときに武備を限るなんて、本来ならありえへん。せやけど御公儀はそうした。なんでか?」

「御公儀を頼みとさせるため、か」

 島津忠義が低い声で答えた。

「さいです。皆様の御家中の武備を限り、外敵への対処は御公儀に任せよと。せやけど実際は、大村御家中が主となって片付けはりました」

 孫兵衛の言葉に、誰も反論しない。それは紛れもない事実だったからだ。

「つまり、この法は形だけになってしもうてる。皆様方もこれを廃せんことには、新しい武備も整えられへん。このまま大村御家中の独走を、手をこまねいて見とるしかあらへん」

 孫兵衛は親大村である。

 敵対するつもりはまったくない。

 先代からのつきあいがあるので、大村藩の強さと経済力は誰よりも知っている。対英戦でその軍事力が国内最大だと確定した。

 が、親幕府ではない。

 次郎はじっくりと腰を据えて幕府を形骸化しながら、徐々に立憲君主制にしていくつもりだが、孫兵衛にはまどろっこしく感じるのだ。

「失礼する!」

 突然春嶽が立ち上がり、退座しようとした。

「待たれよ、春嶽殿」

 制止したのは斉泰である。

 前田斉泰は最年長でもあったが、権中納言であり、外様である点を除けば唯一春嶽と同格であった。

「加賀殿、なんでござろうか」

「たかが商人の申すたわ言、そう思えば怒りも湧きませぬぞ。広き考えを持って話を聞こうではないか」

 斉泰に背中越しにそう言われた春嶽であったが、止めていた足を再び動かす。

「たかが商人といえど、御公儀を倒すとまで言われて黙っておられようか。御公儀、すなわち徳川宗家はそれがしの本家筋となりますぞ。では、これにて御免」

 無礼討ちにしなかったのは五大老の目があったからだろう。

 春嶽は振り向きもせず、去って行った。




「行ってしまわれたな」

 伊達慶邦が沈黙を破った。

「英邁とは言え、さすがに御公儀を倒すと言われれば黙ってはおれぬよ」

 容堂も続いた。

「さて、春嶽殿はお帰りになったが、あのままでよろしいのか?」

「障りなかろう。春嶽殿も、話を聞くだけでわれらが本気で御公儀を倒すなどとは思ってはいまい」

 毛利敬親の問いに斉泰が答え、それぞれが顔を見合わせながらうなずいている。

「さて、淀屋よ、取締令を御公儀が廃すると思うか?」

「廃すると思いまっせ。理由は二つ。まずは、ほんまわてが申したように、武備がいんのは事実であること。ほんで今一つは、御公儀も大村御家中に依っているとはいえ、これ以上は望んでおれへんこと。もはや肥前の小さき家中やおまへん。御公儀一力で抑えはできまへん」

 孫兵衛は淡々と持論を述べ、反応を見つつ、続ける。

「そうなったら表向きは徳川宗家が将軍出して武家の棟梁ではあるけど、実際は大村御家中の考えに左右されます。御公儀であって御公儀でない。そら許されへん。大老様や、やり手の小栗様の考えも、当たらずとも遠からずと思いまっせ」

 孫兵衛の言葉に、列席者はそれぞれ思案顔だ。

「うむ。確かに、わが家臣が言っておった。大村御家中の海軍は、上海で見たイギリスやフランスの艦隊と遜色ないと。もはや何処いずこの家中も単独では敵うまい」

 敬親が腕を組んでつぶやいた。

「先代斉彬公の御代より、我が家中も西洋化を進めてきたが、とうてい及ばぬ。我らは鹿児島でその力をしかと見ておりますからな」

 深刻な表情の忠義につられて、容堂や斉泰、慶邦も押し黙った。




「そこでわての出番でおます。この淀屋、非力ながら助力いたします。まずは蝦夷地の儀にございますけど……」

 全員がギョッとした。

 しかし蝦夷地の件は上野介が誰はばかることなく書状を送り、市井の有力者にも送っていたから知っていてもおかしくはない。

「前田様には二十五万両、島津様には十四万五千両、伊達様には十二万五千両、毛利様には七万五千両、山内様には五万両、出資いたします」




 ! ! ! ! !

 今度は全員が絶句した。

 尊大に振る舞うべきか、好意に甘えるべきか。

 どう反応すればいいのかわからないのだ。

 藩から商人へ、借り入れの申出や返済計画を願う事例はあっても、出資の申出など考えられなかったからである。

「こらあくまで出資であって借金やおまへん。返さんでもええお金です。その代わり利がでたら折半、これでいかがでっしゃろか」




「ふ……ふははははは! 淀屋よ、お主は面白いのう。良かろう、許す。商いはお主が差配すればよかろう」

「わは、わはははは……」

 斉泰が笑うと、つられるように全員が笑い出した。

「その代わり御公儀を通してではなく、あくまでも皆様の御家中が執り行う体で、淀屋の名前は一切出さずにお願いいたします」

「無論だ」

「それから……」

「なんじゃ、まだあるのか?」

 五大老の中でも主導権を握りたい斉泰が一番乗り気であった。

「蝦夷や樺太を開発するんやったら何の障りもありまへん。せやけどもし……もしも、別の蝦夷地を開発するんやったら、もっと金が入り用になるか思います」

「な、なにを言うておるのだ」

 斉泰が眼光鋭く孫三郎を見るが、他の大老にも多少の動揺が見え隠れした。

「いえ、杞憂きゆうに終わったらなんの障りもおまへんが、今この機に、なにゆえ蝦夷地の開発なのか思いまして。これまで蝦夷地は大村と松前の両家中が担うとりました。今になって何ゆえと、思ただけにございます」




「……あい分かった」

 斉泰の重い返事で会合は終わった。

 以後も孫三郎と五大老は密かに会合を重ねることになる。




 次回予告 第376話 『万博とアラスカとイギリス』

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