第135話 『大村修理とジョン万次郎』(1851/5/16)

 嘉永四年四月十六日(1851/5/16) 大村城下 <次郎左衛門>

「なんと! ……これは、なんと様変わりしたものよ……」

 殿の出府とあわせて江戸を発った弟君の修理様(大村純ひろ・当時は利純)は、嫡男の甲吉郎様が家督を継ぐとなってから、甲吉郎様と入れ替わりで大村に戻ってきたのだ。

 まず修理様は、大阪で機帆船飛龍丸に驚いた。

 十数年前に殿と一緒に参府の際に乗った福衆丸は老朽化が進んでおり、新しく飛龍丸が建造された訳だが、見た目も何もかもが違うのだ。驚くな、という方が無理だろう。

 修理様と俺は殿と同じ御座船に乗り、海路大村へ帰ってきた。




「次郎よ、これは、お主、お主が成した事なのか?」

 カルチャーショックと言うには言葉がいくらあっても足りない。大阪から三日で大村に着いたのだ。関門海峡から玄界なだへ入り、角力すもう灘を経て早岐瀬戸から大村湾に入る。

 川棚沖ではもうもうと上がる反射炉からの煙に、巨大な空の池にも見える1号ドックと建設中の2号ドックがある。その周辺には大きな音をたて、蒸気缶や様々な機械を製造する工場群があったのだ。

 修理様の目には、とても思い出深い大村の地とは思えないだろう。

「それがしのみ、という訳では無論ございませぬ。故あって、有り難き事に殿のお引き立てを頂き、家中の殖産方と勘定方を任されております。すぐれたともがら(仲間)に恵まれ和蘭の助力を得て、ここまできたのでございます。ひとえに、殿のお陰にございます」

「おいおい、おだてても何も出ぬぞ次郎よ。修理、ここにいたのか」

 殿が後ろから会話を聞いて入ってきた。修理様と俺は軽く一礼し、三人で話す。

「とんでもございませぬ。誠の事にございます」

 俺の言葉に殿は笑みを浮かべる。

「修理よ、我が家中がここまできたのは、この次郎の先見の明によるもの。わし亡き後は甲吉郎が当主となるが、まだ幼い。お主が後見となり、次郎と共に家中をもり立てていかねばならぬぞ」

「殿!」

「兄上!」

「ははははは! 戯れ言じゃ。気にするな」

 殿はこの時、俺と同い年で数え30歳、修理様は21歳、甲吉郎様は6歳。




「修理様、ご無事のお帰り祝着にございます」

 針尾九左衛門である。優秀だが、殿ではなく修理様を推しているのだ。もちろんあの一件以降、大っぴらには発言していない。九左衛門は殿に一礼し、その後俺にも一例した。

 家格は上だが、まだ家督を継いでいないために、格外とは言え家老の俺に礼をしたのだろう。
 
 修理様は有能だ。九左衛門もまた有能である。徒党を組んで修理様を担いで……などはないだろうが、頭の隅には置いておこう。

 史実では倒幕派だったのだ。

 誰が倒幕で誰が佐幕かなど、状況によって変わっていくとは思うが、幕府による開国が朝廷ならびに諸藩に認められなければ、腰抜け幕府という気運から、倒幕に結びつきかねない。

 俺の目標は倒幕じゃなくて、あくまでソフトランディング。内乱なしで開国して、不平等条約も、インフレも諸々の国内不安定要素もなくして、やわーく明治を迎える。

 これだ。




 ■藩庁 面談室 <次郎>

「おお! まさかまさか! ジョン万次郎……中浜万次郎殿ではありませんか?」

「わ、わしの事を知っちゅーがですか?」

 当然だ。目の前に立つ男はかつて漂流してアメリカで学び、そして日本に戻ってきた、ジョン万次郎なんだから。

 万次郎は10年前に、乗っていた漁船が難破して小笠原諸島の無人島である鳥島に漂着して、143日間生き延びて、アメリカの捕鯨船に助けられたのだ。

 しかし日本は鎖国中であり、そのままアメリカに向かうしか無かった。長い年月を経て、ようやく琉球にたどり着き、薩摩藩を経由して大村藩へやってきたのだ。

 史実では今年の7月に琉球から薩摩に上陸したのだが、斉彬の藩主就任が1年早まったせいだろうか、1月に琉球からの情報を受けてすぐに薩摩に移送させ、休息の後、大村に向かわせている。

 西洋の情報が欲しいはずの斉彬は、なぜすぐに大村へ万次郎を向かわせたのだろうか?

 ……!

 もしかして、俺たちのレベルを確かめる為? 万次郎の他にも薩摩藩からは数十名の藩士が来ている。万次郎の目から見た俺たちのレベルを、そのまま知るためなのか?

 そう考えれば、辻褄はあう。うーん、喰えない親父だ。
 
 もし俺たちのレベルが欧米レベルなら、異国恐るるに足らず! になるだろうし、そうでなくても、どのくらいの技術レベルの差なのかを知っていれば、後々役に立つ。

 史実では薩摩で40日程度滞在(取り調べ)し、その後長崎に移って1年近く尋問され、翌年(来年)の6月に判決が出て、土佐に送られることになる。

 ここで、俺たちの長崎奉行ズブズブ接待が役にたった。無駄に長く尋問をするのではなく、大村藩監視の下、在宅起訴? のような形で対処してもらったのだ。

 おれはその時点では知らなかったのだが、誰が俺に忖度そんたくしたんだ? 長崎奉行の内藤忠明とは面識があったから、後から挨拶に行こう。

「Thank you for all your hard work for a really, really long time.(本当に、本当に長い間、お疲れ様でした)」

「! Can you speak……English?(! 英語が……話せるのですか?)」

「Haha, I’m not good at it.(ははは、得意ではありませんが)」

 万次郎は涙ぐんでいる。そりゃそうだ。泣きたくもなるだろうさ。

「なにか、力になれる事はありませんか? 今、一番の望みは?」

「……土佐に、土佐に帰りたいがです。帰っておなん(お母さん)に、おなんに会いたいがです」

 万次郎は9歳で父を亡くし、病弱な母と兄を支えるために幼い頃から働いていた。

 寺子屋に通えず読み書きもできなかった。10歳で中浜浦の今津太平の家で下働きを始めたが、重労働に耐えかねて脱走し、母の計らいで宇佐の筆之丞の元で漁師として働くことになったのだ。

 やべえ、まじやべえ、涙がでてきた。くそ、泣いたらいかん。まじで、我慢しろ……。

「あい分かった。長崎奉行の内藤殿とは昵懇じっこんの間柄故、なるべく早く土佐に帰れるように、それから取り調べの苦のないように取り計らう故、それまではどうか我慢してくだされ」

「有り難きしあわせにございます」




 ■その後の万次郎

 万次郎は薩摩からの遊学生とは別に宿舎が与えられ、奉行の取り調べを受けながら領内を見学し、ありのままを五代友厚や小松帯刀ら薩摩の藩士に話して聞かせた。




 謹啓

 時下益々ご清祥の事とお慶び申し上げ候。※超訳あり

 先日、中浜万次郎殿が大村家中家老の太田和次郎左衛門様にお目通り叶い、手厚きご加護を賜りけり候。

 併せて長崎奉行の取り調べも厳しからず、年内には土佐に帰れる見込みに候。

 中浜殿いわくく大村家中の技の塩梅あんばいは、異国と比ぶれども遜色なき事の様(状況)にて、仮に劣れりといえども、数年で越さんようなり候。

(先日、中浜万次郎殿が、大村藩家老の太田和次郎左衛門様に会うことが出来て、丁重に扱われているようです。同時に長崎奉行の取り調べも厳しいものではなく、年内には土佐に帰れるだろうとの事。中浜殿が言うには、大村藩の技術レベルは欧米と比べても遜色なし、仮に劣っていたとしても、数年で追い越すのではないだろうか、という様な状況です)
 
 恐惶きょうこう謹言。

 四月十六日

 小松尚五郎(帯刀)

 御殿様




 次回 第136話 (仮)『ジャスポー銃の完成と金属薬莢やっきょうへの道。松代藩と松前藩』

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