嘉永五年八月十八日(1852/10/30) 大村藩庁
「然て次郎よ、この、ごほっ……長崎奉行の志摩守(牧義則)殿からの書状じゃが、どうにも公儀から問いただすようにとのお達しのようじゃ」
「殿、大事ございませぬか? 誰かおらぬか! 俊達先生を……ええい、一之進を呼ぶのじゃ」
次郎は立ち上がって純顕に近づこうとし、大声で医師を呼ぼうとする。
「待て、大事ない、大事ないのだ」
「然れど……」
「案ずるでない。己が体は己が一番ようわかっておる。大事ない。それよりもこれだ」
純顕はそう言って次郎の行動を制し、医者を呼ぶなと命じたのだ。純顕は書状を次郎に渡して見せる。
「これは……」
「うむ。先だっての和蘭風説書に対して、いかに処すべきかとの問いじゃ。あからさまに問うては公儀の沽券に関わると思ったのだろう。志摩守殿(長崎奉行)を通じて聞いてきおったわい」
純顕の顔色は良くはない。
いつも血色が良い訳ではないので、普通と言えば普通である。
しかし次郎にとっては、同い年で主君ではあるが、友人のような親しみやすさを感じていた純顕の容態は、人ごとではないのだ。
「それで、如何お返事をなされるおつもりなのですか?」
「ふふふ。それをお主に聞こうと思うて呼んだのじゃ。わしとしては開国すべき、というのは変わらぬが、奴らの条件をそのまま呑むのも面白くはない。一旦は断って腰を据えて話し合い、我らに利のある条件、というよりも害のない条件で約を結ばねばならぬと考えて居る。如何じゃ」
やはり聡明なお方だ。そう次郎は思い、うっすらと笑みが浮かんだ。
「なんじゃ、如何した?」
「いえ。まさに殿のお考え、神機妙算の如しにございます」
「お主を見ておると、世辞にしか聞こえぬのう……。ふふ、まあ良い。して、如何じゃ? 何か付け足す事はあるか」
「……然うですね、それがしの考えを申し上げるならば、鎖国は祖法ゆえ曲げられぬと、こう通すのが良いでしょう。いま和蘭との貿易を、わが家中をはじめ佐賀や福岡が行って、ようやく幾分か慣れてきたところにございます。いきなり国を開くは、時期尚早やもしれませぬ」
次郎はしばらく考えてから答えた。どうやら色々な考えがあり、まとめるのに時間がかかったようだ。
「ふむ、それで?」
「亜墨利加も簡単に通商ができるとは思うてはおらぬでしょう。まずは幾らかの港を開き、石炭や薪、水や食料を安心して補給できるように求めてくるかと存じます」
純顕は次郎の発言を聞き逃すまいと、身を乗り出して聞き入っている。
「それは何ゆえじゃ?」
「清国にございます」
「清国?」
「はい、英吉利はアヘン戦争で清国に勝って以来、清国と交易をしております。然りながら亜墨利加は清国と交易はしておるものの、本国から清国までの補給地がありませぬ。弘化三年の来航と同様にございます。それ故まずは、わが国に対してそのように求めてくるかと存じます」
「なるほど。では開国は時期尚早、加えてゆるりと腰を据えて交渉せよ、という訳か」
交渉役は林大学頭ではなく、初回の交渉は浦賀奉行の戸田氏栄と井戸弘道だ。中島三郎助がファーストコンタクトをする。
「そこで殿、ひとつお願いしたき儀がございます」
「……ほう。何じゃ? 何ぞまた悪巧みでも考えておるのか?」
「悪巧みとは人聞きが悪うございます」
「では何じゃ?」
「は、その交渉には殿もご同席いただきたく存じます」
「なに! ? わしがか?」
純顕は驚きを露わにした。無理もない。さすがの純顕も、外様の小藩の藩主である自分が、国の命運を左右する交渉に参加するなど、考えもつかない事だからだ。
「然に候。然れど恐らく、公儀は許さぬでしょう。ここで重しは、それほど重きお役目でも承れる自信があると、公儀にお伝えすることにございます。然れば殿の公儀内におけるお立場は、いや増すばかりかと存じます」
「ふふふ、次郎よ。お主も悪よのう」
どこかで聞いた事のある台詞だと次郎は思いつつ、詳細を純顕に話し、退座した。
どうせ来年の6月には徳行丸、昇龍丸、蒼龍丸、飛龍丸の蒸気船4隻で浦賀に向かうのだ。その計画は着々と進んでいた。
■川棚造船所
佐久間象山は、曙丸のスクリューシャフト回りの問題に頭を悩ませていた。これまでの航海で、軸と船体の接合部分からの浸水が大きな課題となっていたのだ。
「このままでは、長い航海は難しいではないか」
象山は眉間に深いしわを刻み、鋭い眼差しで遠くを見つめながら、重々しい口調で言った。
「先生、如何にすれば浸水を防げるのでしょうか」
稲田東馬が尋ねると象山は口元に手を当て、目を細めながらしばらく考えた後、慎重に言葉を選ぶかのようにゆっくりと答えた。
「軸と船体の間の隙間を埋める、何か新しい方法が必要じゃ。これには相当の時がかかるだろう」
こうしてスクリューの改良が始まったのだが、当初は試行錯誤の連続だった。麻縄、綿、獣毛など様々な材料を試し、編み方や油脂の染み込ませ方を何度も変えては試験を繰り返した。
一ヶ月が経過した頃、象山は最初の試作品を手に取った。
「まだまだじゃな。これではすぐに劣化してしまう」
佐藤大全が作業場に顔を出した。
「象山殿、進捗はいかがでしょうか」
「佐藤殿申し訳ない。まだ満足な結果は得られておらぬ。然れど諦めるわけにはいかん。もう少し時をいただきたい」
「承知いたしました。焦らず着実に進めてください。我々も全力で支援いたしますぞ」
果てなき挑戦はつづく。
次回 第154話 (仮)『石油精製法その弐』
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