1566年~1570年(忘備録)

1566年(永禄九年)
1月
小佐々領 人口十二万人
石高 十八万三千七百五十二石

波多家 十四箇条の定めにより保護国化
2月
沢森家
第三子 吉法師誕生
第四子 愛姫誕生

3月
海軍伝習所
第一期生卒業
計百二十八名(松浦郡十六名・彼杵郡四十七名・佐賀郡五名・杵島郡十五名・高来郡二十八名・神埼郡十二名・藤津郡4名・小城郡一名)
陸軍調練所 ほぼ同数
これをもって、海軍兵学校・陸軍士官学校と改組改称する

5月
佐賀六郡仕置完了
石高 三十四万三千九百五十石(保護領含む三十八万千九百三十石)
人口 二十一万人
一族 十一万五千石(龍造寺・江上・伊万里・相神浦松浦)
従属勢力 十二万五千石(千葉・西郷・須古・神代・筑紫)
同盟勢力 十七万石(宗・宇久・後藤)

第五回遣欧留学使節団 派遣

6月
菜種によるせっけん製造量・販売量増大

7月
朝鮮との陶工技師招聘交渉開始
耐火粘土の採掘と窯の作成、耐火レンガの作成研究開始

8月
道路舗装のためのコンクリート・材料採掘を彼杵、唐津の七ツ釜で開始
ゴムの入手先の検討
橋梁工事のための技術者を中国から招聘検討開始

9月
練習艦三隻就役
練習艦隊として東南アジア探検、航路開拓開始
国内航路 第一~第三艦隊にて開拓
200トン級をベースに順次建造、大型化研究

1567年(永禄十年)
1月
肥前守叙任

3月
海軍兵学校・陸軍士官学校
第二期生卒業

4月
小佐々大学開校(一般的な学問・教育学部)
小学・中学・高校で何を学ぶかを体系化し、中学・一般高校の開設に備える
沢森治郎純政(15)海軍兵学校入学、永禄十四年(1571年)卒業予定

5月
第六回遣欧留学使節団 派遣

6月
勝尾城主 筑紫惟門に兵糧支援 五百石(名目 流民支援)

7月
大友宗麟と面談 筑前仕置の起請文を得る
平戸、横瀬浦に続き口之津にポルトガル商館設立

8月
二条藤子輿入れ
多比良~長崎~伊佐早~大村間68.9km舗装完了
筑前守叙任

10月
筑前仕置完了
筑前守叙任
石高 四十七万七百三十二石(保護領含む五十万八千七百十二石)
人口 三十万人
一族 十一万五千石(龍造寺・江上・伊万里・相神浦松浦)
従属勢力 五十六万石(千葉・西郷・平井・神代・筑紫・立花・高橋・秋月・宗像・原田・内海・福田)
同盟勢力 十七万石(宗・宇久・後藤)

第二期練習艦隊出港(旗艦1戦闘艦4補給輸送艦3)
台湾入植者、マカオ・マニラ・安南・マラッカ・バンテン他外交使節、入植希望者、商館職員、技術者等同乗派遣

11月
対信長使臣団進発
撰銭令発布
硬化鋳造、紙幣発行の準備

アルメイダ医学校来年三月一期生卒業予定
医学校医学部・薬学部二部制
新薬研究室は薬学部、臨床研究室は医学部内に併設

対馬鉱山開発協定を宗氏と結ぶ。これにより銀・銅の備蓄量増加を目論む。
同時に肥前波佐見でも金・銀鉱山開発(外貨備蓄・新硬貨鋳造のため)
朝鮮との陶工技術者派遣交渉継続中

多比良~横瀬浦~大串~時津~伊佐早間78.18km舗装完了
南部・南西部を除く半島外周完了

琉球との通商関係樹立

12月
平戸~佐々~佐世保~大村間、諫早~島原~口之津~千々石~長崎~野母崎間
合計267.8km舗装完了
平戸から松浦郡の西岸をとおり佐世保から大村湾東岸、諫早を通り島原半島全周ならびみ長崎まで南回り街道。長崎から深堀をへて野母崎まで完了

1568年(永禄十一年)

1月
対毛利不可侵条約締結
筑後生葉郡・竹野郡の星野重実、上妻郡の五条鎮量と黒木鑑隆、三潴郡 の西牟田鎮豊、三池郡の三池鎮実、筆頭で柳川城主の蒲池鑑盛 従属

肥後は天草郡の大矢野種光、上津浦鎮貞、志岐鎮経
北肥後の小代実忠と内古閑鎮真 従属

石高 六十八万八千百三十四石(保護領含む七十二万六千百十四石)
人口 四十四万人
一族 十一万五千石(龍造寺・江上・伊万里・相神浦松浦)
従属勢力 七十七万七千四百二石(多数)
同盟勢力 十七万石(宗・宇久・後藤)

雪浦川架橋工事完了
朝鮮陶工技師派遣交渉終了、現地調査開始

居城移転計画 小佐々城から諫早城
期間2カ年
総費用 412,250貫文

2月
木炭価格急騰につき
領内(属領含む)にて石炭の増産体制と燃料用コークスの製造開始
ならびに副産物の石炭灰をコンクリート製作に利用開始

平戸~松浦~伊万里~唐津~呼子~玄海~辻~伊万里間 合計137km舗装完了

3月
肥前 天久保にて
陸海軍工廠、造船所、工部省工廠にて、同時多発的に爆発事故発生
長距離砲多数破壊、旗艦級艦船三隻破壊、製造設備破壊

海軍兵学校280人、陸軍士官学校380人、第三期生卒業
アルメイダ医学校第一期生卒業(医学部100人薬学部80人)
久留米~玉名~佐賀~久留米 合計122km 舗装完了

4月
京都大使館新設(移転?拡充)にて人員募集
所司代就任
五千人警護体制

生糸国内生産、絹国内生産、販売開始
砂糖増産販売拡大
京都にて撰銭と貨幣鋳造、紙幣発行による店舗展開
様々な商店を出店する(肥前・筑前・筑後・北肥前も同様他同意した同盟国)

南肥後 相良との不可侵条約ならびに通商協定締結
燧発式銃貸与ならびに銅、陶石、無煙炭の輸入優遇措置
佐賀~鹿島~太良(藤津郡)~諫早~大村~鹿島~武雄~東彼杵~大村間 
合計177km舗装完了

5月
上洛
洛中ならびに内裏を警護する所司代の状況を視察
三好義継・松永弾正に支援書面
唐津~宗像~若松~中間~鞍手~直方~飯塚~嘉麻~朝倉~久留米間
合計194km舗装完了

第七回遣欧留学使節団 派遣

6月
毛利元就・島津貴久 没

7月
第一回遣欧使節帰港
純アルメイダ大学(旧アルメイダ医学校)に数学・物理学・天文学・生物学・地理学・科学・化学・建築学・工学・農学・医学・薬学・造船学・弾道学・土木工学・語学(ラテン語、ポルトガル語、スペイン語、オランダ語、英語、フランス語)の学部を増設

新型艦船、新型の鋳造法にてカルバリン砲・セーカー砲・カノン砲の製造を開始

9月
(元)毛利家 豊前松山城城主杉重良より要請をうけ
5軍団による救援、豊後侵攻作戦を開始
伊東義祐、木崎原にて島津義久に大敗

島嶼部、離島に信号所と灯明台の設置の具申あり。建設を開始する。信号伝達に必要な、最西端と最東端などに設置する。対馬~壱岐~唐津間は距離があるので出来ないが、五島~小佐々間ではこれにより飛躍的に通信速度が上がる。

対大友戦役終了
仕置後の石高は次の通り
石高 百四十五万三百五十石
人口 九十五万人
一族 二十一万二千石(龍造寺・江上・波多・伊万里・相神浦松浦)
従属勢力 百三十万二千四百石(多数)
同盟勢力 十七万石(宗・宇久・後藤)

10月
台湾出兵計画を立案
マニラ・富春・アユタヤ・バンテン王国へ通商樹立のため使節再派遣
陸軍三個師団五万四千名計画
(門司に一個師団、阿蘇の堅志田城に一個師団、日向路の朝日嶽城に一個師団配備)
海軍五個艦隊四十隻計画
佐世保西海鎮守府(三個艦隊)、佐伯中南鎮守府(二個艦隊)開設
琉球へ航路途中の寄港要請
対明台湾統治関連書面発行要請
第三回練習艦隊出港(松浦親乗組)
胡椒・クローブ・シナモン・ナツメグ・ジンジャー・ターメリック・コリアンダー・カルダモン・クミン・カイエンヌペッパー・フェンネル・セロリシードなどの香辛料の種、苗木を琉球と小佐々領内で栽培、加工

11月
信長、小佐々に対し交換留学生派遣要請
大砲、船舶建造研究開始(信長)
種子島家、小佐々家と攻守同盟を結ぶ
フィリピンでの要塞造営開始
純アルメイダ大学、弾道学部を陸、海軍学校へ移管

1569年(永禄十二年)

1月
昨年12月に発生した三好三人衆の反乱を鎮圧
織田家と攻守同盟を締結

2月
明よりの返書を受け、台湾駐屯地造営を開始
フィリピンでの要塞造営は進行中

3月
島津、禰寝家併合
織田留学生小佐々到着
海軍兵学校・陸軍士官学校第四期生卒業
純アルメイダ大学(旧アルメイダ医学校)第二期生卒業
生物学部植物学科から植物学部を新設

4月
従四位上検非違使別当叙任
2度目の上洛
信長に旧式フランキ砲譲渡
種子島に分遣隊派遣軍艦五隻、歩兵一個連隊、砲兵一個大隊、騎兵一個大隊
攻守同盟締結
一条氏救援のため四国出兵、長宗我部、西園寺、河野(毛利同盟のため攻撃はせず)と海戦

5月
日向北部、縣松尾城主、土持親成服属
第八回遣欧留学使節団派遣

6月
四国、予土戦役
一条、河野服属
石高 百五十六万二千六百六十七石
人口 百二万人
一族 二十五万二千石(龍造寺・江上・波多・伊万里・相神浦松浦)
人口十六万
従属勢力 百三十八万九千五百八十一百石(多数)人口九十二万
同盟勢力 十七万石(宗・宇久・後藤)

7月
第二回遣欧使節帰港
肝付、相楽、伊東の三国同盟成立
小佐々はその支援にまわる戦略変更

8月
信長より、追加二十名の留学生受け入れ決定

9月
相良、伊東、肝付と島津の戦いが始まる

10月
織田留学生、追加二十名到着
相良軍撤退
伊東軍木崎原にて再び敗北
肝付軍、志布志を奪われ劣勢
種子島時尭参戦、種子島分遣艦隊、駐屯軍支援参戦
第三回練習艦隊帰港
島津戦終了、島津領、相良領、伊東領、肝付領、仕置を行う。

太田和忠右衛門の真空実験成功(ゲーリケ)
源五郎の蒸気機関研究(ドニ・パパン~セイヴァリ)
缶詰の研究開発
ライフル銃の研究開発

11月
対スペイン戦線のためポルトガルに同盟要請
フィリピン、マカオ、台湾、富春、アユタヤ、マラッカ、バンテン王国へ天文観測所設置

12月
長宗我部服属、安芸服属
南九州反乱鎮圧
西園寺降伏、宇都宮改易
土居清良出仕
石高 四百八十万六千八百石
同盟勢力 十七万石(宗・宇久・後藤)

フィリピンにてスペイン艦隊からの使節と面談、目的を看破して撤退させる

永禄十三年/元亀元年

1月
純正上洛(3回目)
親織田戦略に変わりなし

2月
1月末~浅井長政、若狭制圧
朝倉義景、上洛拒否
小佐々軍三好攻め準備

3月
六分儀完成
三好へ最後通牒
織田・浅井軍 越前へ侵攻
織田軍撤退
ポルトガル艦隊来日
海軍兵学校・陸軍士官学校第五期生卒業
純アルメイダ大学(旧アルメイダ医学校)第三期生卒業

4月
浅井軍撤退
三好三人衆摂津上陸
小佐々軍阿波侵攻開始
三好家へ降伏の最後通告

5月
第九回遣欧留学使節団派遣
三好家分裂
摂津三好家・阿波三好家となる
阿波三好家は服属九万九千百八十五石
摂津三好家は四十四万千八百六十三石(直轄地四万五千石)にて降伏(和議)表面上は独立国

小佐々領
総計 五百五十三万七千十四石(宗・宇久・後藤領同盟から友好的服属)

6月
織田家と三好・本願寺・延暦寺他包囲網勢力和議
和泉は織田家に返還
ヒゲゼンマイ時計完成経度測定に利用航海図作成開始
朝廷と幕府に領内での新硬貨と紙幣の造幣を上奏(織田領内は保留)
正四位下近衛中将

7月
夏休み留学生帰省
第三回遣欧使節帰港

8月
信長伊勢長島一向一揆殲滅のため侵攻
(洋式帆船完成・キャラック初期型・サンタマリア号程度)
浅井長政 丹後侵攻

9月
尼子家より対毛利の支援要請
播磨の赤松、別所、因幡の山名経由での支援は決定(水面下で)
山陰、山陽戦略の改定
浦上ならびに上記の大名に暗に服属を要請
浦上代表と会談

10月
毛利代表小早川隆景と会談
宇喜多代表戸川秀安と会談 服属決定
第四回練習艦隊帰港

11月
純正4度目の上洛ならびに室町御所参内
信長と会談
中四国会議開催、各大名同盟、服属条件締結
これにより西日本はほぼ小佐々の支配下となった。
宇喜多直家、黒田官兵衛出仕

12月
吉川領へ鉱山技術者他石けん、椎茸、澄酒他育成技術者も
能義郡租借料支払い 二万二千八百二十四貫

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