第181話 『四賢侯、松平春嶽と伊達宗城』

 嘉永七年七月二十九日(1854/8/20)  越前福井城

「左膳よ、左内からの上書じゃ」

 越前福井藩主である松平慶永(春嶽)は改革派の家老岡部左膳に対して、帰郷していた橋本左内からの上書を見せた。

 福井藩は慶永が藩主となる前は守旧派である松平主馬しゅめらが藩政を行っていたが、就任の翌年に罷免し、改革派が登用されて藩政改革を行っていたのだ。

「ほほう……これはこれは」

 差出人の橋本左内は弱冠21歳の若者である。

 嘉永二年(1849年)に大阪の適塾で緒方洪庵に学んでいたが、その洪庵が突然塾を畳み、肥前大村へ向かったのだ。その時に一緒について行けるように藩に願い出て許されたのだが、それからもう五年もたっている。

 嘉永五年(1852年)の春に父親の病気で福井に帰郷しており、その年の十一月に父親が亡くなると藩医(表医師外科)の列に加えられた。

 緒方洪庵はもとより長与俊達の他、石井宗謙や二宮敬作などのシーボルト門下生、そしてなにより一之進の薫陶をうけた左内の医学知識は同世代のオランダ医学を凌駕りょうがしていたのだ。

 しかし、薫陶を受けたのは一之進だけではない。

 大村藩の造船や鋳造などを始めとした先進的な技術や産業、次郎や信之介との出会い、全国から集まった秀才との友誼ゆうぎが左内を医者の枠に留めておけないほどに大きく成長させたのだ。

「やはり攘夷じょういでなく、開国と言うことか。お主と同じ事を申しておるな。水戸殿はそれでも攘夷と仰せのようだが、以後わが家中は如何いかにすべきであろうかの」

 左膳はニヤリと笑いながら答えた。

「然様にございます。もはや攘夷を行う時勢ではございませぬ。行うにしても、この日本が大いに栄え、異国と変わらぬ力を備えてからにございます。中根雪江などの有能な士を召し抱えられたのと同じく、左内もお側におき、殿を補佐させるべきかと存じます」

「うむ、では左内には、この上書の中身を吟味するゆえ出仕いたすよう申し伝えよ」

「はは」

「加えて公儀の廃したる大船建造の禁であるが……如何に考えるか」

 福井藩では有能な家臣団と共に藩政改革を行い、財政を健全化させていたのだ。

れはまさに天佑てんゆうにて、我が家中でも大船、洋式の大船を造る事が肝要かと存じます。然りながら如何にしてつくり、如何ほどの銭と如何ほどの料が要るか存じませぬ。それこそ左内にお尋ねになり、大村へ造船のために人を遣って学ばせねばなりますまい。または……習って造らせるより、買った方が早いやもしれませぬ」

「買うた方が早いか。いずれにしてもそれを操り、修繕するにはその技を身につけねばならぬな」

「御意にございます」

「では左内を早急に呼び、その旨を質すとともに大村へ使者を遣わし……いや、いっその事左内にいかせよ」

「はは」




 こうして越前福井藩の軍船の購入・建造計画が始まった。




 ■伊予国 宇和島城

「数馬よ、公儀からのお達しにより大村家中への遊学は能わなかった。然れど、禁は解かれた。ゆえに遊学も子細しさいなし(問題なし)という事となろう」

「は。然様にございます。功山からの文にも大村の領内はまるで異国のようである、とございました。薩摩や長州、佐賀に福岡などの家中に遅れはとりましたが、これより先は遊学の徒を送って学ばせても遅くはないかと存じます」

 伊予宇和島藩からは技術者の前原功山が大村藩へ出向しており、蒸気機関の研究や製茶機械の開発に余念がない。時代の最先端に身内がいるとなれば、心強いのだろう。

 宇和島藩もまた藩政改革により財政は再建されつつあったが、そうなれば蒸気船をはじめとした洋式の最新軍備に目が行く。藩主の伊達宗城は家老の桜田数馬とその件について話していたのだ。

「数馬よ、蒸気船とは、いったい如何ほどするのであろうか」 

「は、それにつきましては、未だ大村家中は何処にも蒸気船はもちろん、西洋式の帆船は売っておらぬそうにございます」

「ふむ」

 大村藩は大阪商人から蒸気船の販売を打診されていたのだが、造船所のキャパシティとの兼ね合いもあり、断っていたのだ。幕府から余計な嫌疑をかけられたくない、というのもあったのかもしれない。

 いずれにしても、売っても動かす人間がいないのだ。

「ただ、彼の家中としては、あくまで家中が有する船を商人に貸している、という体で用いているようにございます」

「うべなるかな(なるほど)。それならば公儀から余計な嫌疑はかかるまい」

「然様にございます。加えてその値についてでございますが、長崎に小曽根乾堂という商人がおりまして、その者が大村家中より船を買ったそうにございます。四百五十石積みで値は一万五千両」

「い、一万五千両! ?」

 宗城はあまりの金額に、聞き直した。おいそれと出せる金額ではない。

「然れどそれは三年前の事にございます。今は少し安くなっておるであろう事と、船の修繕や乗員の手配は全て大村家中が行い、頭金五千両の残金一万両は、商いの利益から返済する、斯様かような売り方をしたようにございます」

「うべな。要るもの全て込みでその値ならば……いかがなものであろうな。我が宇和島でも造れぬだろうか。それとも買った方が早いのだろうか」

 数馬は考え込む。将来的な事を考えれば、功山を呼び戻し、自分達で建造した方が安上がりになるかもしれない。しかし、乗組員の育成や船の運用も考えれば、最初は買った方が安上がりかもしれないのだ。

「一概には言えぬと存じます。すぐに船を欲するならば、その小曽根乾堂と同じようにして買えば宜しいかと存じますが……」

「いずれにしても、すぐには決めかねる事ではあるな。取り急ぎ大村へ送る藩士の人選を急ぐのだ」

「はは」




 ■松前城

「……ったく、なんで今さらミニエー銃なんて扱わなきゃならんのだ? 弐式銃(嘉永二年式・ドライゼ銃)ならまだしも、基礎課程で習ったミニエー銃だぞ。俺たちゃ最新の参式銃(嘉永三年式・ジャスポー銃)を扱えるんだぞ」

「伍長、それはいいっこなしですよ。ゲベール銃じゃないだけましです。御家老様は何かお考えがあるんでしょう」

 古株の伍長と、このあいだ昇進したばかりの一等兵の会話である。

「まあそうなんだがな……兵の調練だけじゃなく、台場の造成や大砲の配備まで手伝うってんだから、かなりの力の入れようだな」

 事実、次郎は松前崇広との協議の中で、蝦夷地の権益を守る事を前提に、北方の防衛を幕府に約束した。その為に必要な事であったのだ。

「あ、副奉行様」

 二人で話していると、陸防掛副奉行の立石昭三郎がやってきた。

如何いかがした? 何やら不満げだな? 寒いのは我慢せよ。御家老様からも遠方手当と寒冷地手当が出ると聞いておるだろう」

 ニコニコ笑いながら昭三郎は二人に話しかける。昭三郎は冬季雪中軍装の上に毛皮をはおっていた。大村軍は全員が防寒装備である。

「副奉行様、違うのです。その、なんで今さらミニエー銃なのかと。これだと、三兵ができなくもないですが、弾を込めるのが……」




「ははははは。まあそう言うでない。なんと仰せだったかな、確か……安全保障上のと仰せだった。問題ない。気にするな」




 次回 第182話 (仮)『四賢侯、山内容堂と島津斉彬』

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