第199話 『吉田寅次郎、高杉晋作とともに帰郷する』

 安政三年四月十一日(1856/5/14) 長州藩 萩城下

「ごほっごほっごほっ……」

「先生、あまり無理をなさらずに、ご静養くださいませ」

「……九右衛門よ。わしはもう……長くはない、後は頼むぞ」

 藩主毛利敬親とともに天保の改革で長州藩の財政を立て直した村田清風であるが、その命の灯火が消えようとしていた。病床の清風を見舞うために自宅にやってきた、家老の坪井九右衛門は枕元で言う。

「何を仰せになりますか。先生を政に戻した政之助も、椋梨の策略によって失脚の憂き目となり申した。某一人では彼奴らを抑えきれませぬ」

 長州藩は村田・周布・坪井らの(後に桂らも入る)改革派と、椋梨藤太や中川宇右衛門らの俗論派(佐幕派)との勢力争いが激しかったが、改革派の財政再建案である越荷方が成功した事で、大坂への商品流通が著しく減少したのだ。

 これにより幕府からの横槍が入り、保守派(佐幕派)の反対もあって清風は失脚となり、それを引き継いだ周布政之助も辞職に追い込まれた。

「なに、案ずる事はない。今は辛抱の時じゃ。大村に行っておった寅次郎や晋作が帰ってきていると聞いた。これからは彼等若い人間の時代じゃ。よくよく話を聞き、彼等と力を合わせていくのだ」

「はは。先生もお気を強くお持ちください」




 数日後、村田清風没。享年74歳。史実よりも1年長い寿命で、その生涯を終えた。




 ■松下村塾

 大村から戻った吉田松陰は、自らが得た知識と見解を次の世代に残そうとしていた。
 
 大村に残ってさらに学ぶ事もできたのだが、藩費である。藩の主流派が変わった(改革派から保守派へ)事もあって、戻らざるを得ないという事情もあったのだ。

 松陰の噂を聞いて、遊学ではなく見聞を広める体であった高杉晋作などはなおさらである。松陰は6年、晋作は4年大村藩にいたのだ。松陰はわからなくもないが、ただの旅人が4年というのは尋常じんじょうではない。

 許可をした村田清風は亡くなっており、周布政之助も失脚していたので帰藩せざるをえなかった。その松陰の目の前には、20名を超える門下生がおり、松陰の教えを受けている。

 松陰は、集まった門下生たちを見渡した。彼らの多くは同年代もしくは松陰よりも年下であったが、その眼差しには師を仰ぐ敬意が宿っていた。

 松陰は数えで27歳である。

「諸君」

 松陰は静かに口を開いた。

「我々は今、大きな変革の時代に立っている」

 門下生たちは息をのみ、その言葉に聞き入った。

 松陰は歩きながら続けるが、一緒に学んだ宮部鼎蔵が客員として同席している。宮部は長州の人間ではないため出しゃばることはないが、松陰の頼みで同席していたのだ。

「大村の地で学んだことは、我が国の未来を左右する重要な知識だ。然れどそれを正しく活用するには、我々の古からの考え方との調和が肝要である」

 高杉晋作が身を乗り出し、熱心にうなずいた。彼もまた、大村藩での経験が自身の考えを大きく変えたことを実感している。松陰は立ち止まり、真剣な表情で門下生たちを見つめた。

「これからの日本に必要なのは、伝統を重んじつつも、新しい知識と技術を取り入れる柔軟さだ」

「先生」

 部屋の隅で、久坂玄瑞が静かに手を上げた。松陰はうなずき、彼に発言を促す。

「大村家中の進んだ技術は確かに驚くべきものです。然れど、それを我が家中に取り入れるには、多くの障害があるのではないでしょうか」

 玄瑞は慎重に言葉を選びながら話し始めた。松陰は微笑み、机の上に広げられた地図を指さす。

「その通りだ、玄瑞。だからこそ、我々は家中の枠を超えて考える必要がある」

 門下生たちの間で小さなざわめきが起こった。松陰はそれを静めるように手を挙げた。

「諸君、我々の目指すべきは、単に家中が栄える事ではない。異国に対するための、日本全体の富国強兵である。そのためには、まず我々自身が変わらねばならない」

 松陰の声には力強さがある。松陰は机に向かい、さっと大きな文字で『実学』と書いて掲げた。

「これからの学問は、机上で社会の理想や道徳を学ぶだけでは駄目なのだ。無論それも必要ではあるが、我らがすべき学問は、実践に結びつくものでなければならない」

 晋作が立ち上がり、熱心にたずねた。

「先生、ではつぶさには如何いかなる学びを?」

 松陰は高杉の熱意に応えるように、詳細なカリキュラムを説明し始めた。伝統的な学問から最新の科学技術、国際関係まで、幅広い分野を網羅する内容だった。

 門下生たちは、松陰の話に引き込まれていった。彼らの目には新しい時代への希望と挑戦の光が宿り、松陰は彼らの姿に日本の未来を見ていた。

「玄瑞さん(久坂玄瑞)、大村の医学は如何いかがでしたか? なんでも蘭学らんがくがたいそう盛んだとか」

「盛んどころではない。あれは蘭学の範疇はんちゅうを超えておるぞ。『ペニシリン』なる薬は傷口がむのを防いでくれる。また、『エーテル』麻酔は死んだように患者を眠らせ痛みを感じさせない。それから『コカイン』なる薬は体の一部のみ麻酔をかけ、これも痛みを感じぬ。斯様かような医術は日ノ本はおろかオランダ人の医者も使用法を学びに来ておったほどだ」

「なんと……」




「晋作さん(高杉晋作)、大村家中では陸軍や海軍がすでに整えられ、藩士だけではなく農民や町民まで将兵となっているそうですね」

「うん。あそこは尋常じゃねえな。まず、戦っても勝てねえだろう」

「の、農民の兵にわが家中の侍が負けるのですか?」

「……そうだ。まず武器が違う。火縄ではないのだ。それに驚くほど飛ぶし狙いも正確だ。敵わぬ。大砲は言うに及ばずだ。それから船だがな、正直なところ、公儀がオランダより贈られた蒸気船より大きな船を、二隻も持っているんだ。どうやっても勝てるはずがない。それに……」

「それに?」

「何かまだ隠している。まだ、何かあるはずだ。いずれにしても、あの家中とは昵懇じっこんに、絶対に戦など起こしてはならん」

「……」




「盛況であるな」

 いつの頃からか部屋の片隅で隠れて聞いていた坪井九右衛門が、ひょっこり顔を出して松陰に言葉を投げかけた。

「これは御家老様!」

 松陰が九右衛門の存在に気付いて平伏して挨拶をすると、全員が慌てて平伏する。

「良い。全員面を上げよ。寅次郎よ、もっと聞かせてくれぬか。特に大村にいった五人は、これから家中の役にたってもらわねばならぬからな」




 いつの日か藩の主導権を取り返す日が来る。その時の為に人材を育成しておかなければならないのだ。




 次回 第200話 (仮)『功山と宇和島藩』

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