第230話 『長野主膳とハリスとの交渉』

 ~安政六年二月十六日(1859/3/20) 水戸 彦根藩邸 次郎襲撃の翌日~

「御家老様! 御家老様!」

「何事じゃ騒々しい!」

 執務室で政務を行っていた彦根藩家老、長野主膳のもとに、側近が息を切らしてやってきたのだ。

「こ、これをご覧ください!」

 そう言って側近が主膳に見せたのは数枚の写真であった。

「なんだこの、面妖な人相書きは? まるで今にも動きそうでは……な! 治郎兵衛に、隼人助、右近……」

 並べられた数枚の写真には、主膳がかわいがっていた彦根藩の藩士が数名写っていたのだ。

「こ、これは、如何いかなる事だ?」

「昨日、肥前大村家中の家老、太田和次郎左衛門殿が襲われ、その下手人としてそこら中に張り出されていたのです! しかもこの人相に心当たりのある者に、百両千両と法外な褒賞を出して黒幕をつきとめるとのこと」

「馬鹿な……なんという事を」

 主膳は江戸における純顕・利純・次郎襲撃の首謀者である。しかしそれは殺害を目的としたものではなく、あくまで脅しであったが、水戸の脱藩不逞ふてい浪士が先走って刃傷沙汰になってしまった。

 今回は違う。

 結果として何の被害も次郎にはなかったが、実行犯は事前に願い出て脱藩しているとはいえ、元彦根藩士が襲ったのだ。主膳は関与していないが、知らなかったでは済まされない。

「これは、由々しき事態である」




 ■下田 玉泉寺

「Hello Mr. Harris. It’s been a while.(こんにちはハリスさん。ひさしぶりですね)」

 ゲ! という声が聞こえそうなハリスの表情である。

「これはこれはジロウ殿。昨年、危ない目にあったと聞きましたが、もう、よろしいのですか?」

 2年近く前の事である。これが体を気遣っての事でないことは明らかだ。大村で大人しくしていれば良いものを、とでも言いたげである。

「お気遣い有難うございます。さてMr.ハリス、交渉に入りましょうか」

 苦々しい顔をしたハリスであったが、仕方がない。次郎はといえば、前回と同じくオブザーバーであったが、すでに現場では意思の疎通が行われていて、実質は次郎が全権のようなものであった。

「まずは神戸の開港ですが、別の場所を提案したい」

 ハリスは眉をひそめた。

「別の場所ですと?  神戸は既に合意されたはずだが」

 次郎は穏やかな口調で答える。

「はい、承知しております。然れど合意と仰せになっても、貴殿は急がれた。こちらは国内の事情により勅を貰わなければと何度も申し上げ、その方が今後の交渉と交易に役立つとも。然れど貴殿が押し通されたのではありませんか? まあ、それは良しとしましょう。なにゆえ神戸の開港が必要なのか、今一度説明願いたい」

「何を今さら。こちらは最初に大阪港の開港を要求したではありませんか。しかし京都に近いからと却下され、そのため神戸としたのです。それを今さら出来ぬとは。サムライとは嘘をつくのですか」

 ハリスの言い分はもっともである。次郎は苦笑いしながら続けた。

「それは確かに、貴殿の言うとおりです。然れどそもそも、開港するにしても時をいただきたいと申し上げたはず。それを貴殿は即時開港と仰った。そのため、正直申せば、仕方なく、仕方なく神戸を提示したのです。貴国の事ゆえ、老婆心ながら申し上げるが、今開港と開市をしても、貿易になりませんぞ」

 ハリスはしかめっ面で腕を組む。

「何?  貿易にならないとはどういう意味でしょうか?  説明していただこう」

「まず、外国と貿易をした経験が長崎の商人しかおりませぬ。斯様かような中、如何なる言葉を話し、如何なる物を食べ、如何なる風習で如何なる商習慣なのか、まったく日本人は知らぬのです。通詞の数も足りませぬ。それで如何にして貿易をなさるのですか? 加えてMr.ハリス、貴殿がそれがしのようにならぬとは、断言いたしかねます」

「貴殿のように、とは? それは……! 脅しですか?」

 ハリスは声を落として鋭い目で次郎を見据えたが、次郎は冷静に微笑みながら、ゆっくりと首を振る。

「脅しではございません、Mr.ハリス。これは現実をお伝えしているだけです。攘夷じょうい派の動きが激化しており、先般、某も危うく命を落としかけました。交易する以上、われらも最大限の警備をいたしますが、完全にはできません。絶対にないとは言い切れぬのです。そのため時間をいただきたいと、申し上げているのです」

 ハリスの表情が和らいだ。彼はゆっくりと息を吐き出し、次郎をじっと見つめた。

「なるほど……ジロウ殿、貴殿の身に危険が及んだことを知り、心を痛めております」

 ハリスは黙りこむが、言葉を選んでいるようだった。

「確かに、攘夷派の動きは看過できない問題です。しかし、だからこそ早期の開港が必要ではないでしょうか?  交流を深めることで、互いの理解も進むのではないかと」

 次郎は静かにうなずいた。

「Mr.ハリス、ではわかりやすい例をあげましょう。貴国の、アメリカ合衆国の先住民であるネイティブアメリカン。彼等との交易は、最初からこれまで、上手くいきましたか? 詳細は内政干渉になるので申しませんが、相当な血が流れ、抵抗があったと聞き及んでおりますぞ。そうまでならずとも、文化や風習の違いはえてして力による争いになりまする」

 ハリスの表情が凍りつき、目に動揺の色が浮かんだ。

「……なるほど。確かに、我々の歴史にも暗い部分があることは否定できません」

 ハリスは深く息を吐き、言葉を慎重に選びながら続けた。

「しかし、ジロウ殿。我々の過ちを教訓とし、より良い関係を築くことはできないでしょうか?  日本とアメリカは、ともに文明国家です。先住民との関係とは違う形での交流が可能なはずです」

 次郎は穏やかに、しかし確固とした口調で答える。

「ふむ。貴殿のおっしゃる『教訓を生かす』がどのようなものかわかりませんが、結論を申し上げる。我らは全力で米国人の安全を守る。しかし、絶対とは言えない。もし、事件がおきても責任はとれない。それでもいいなら調印しましょう。一切の責を負いません。まあ、そうは言っても責任を追及なさるでしょうけどね」

 ハリスは一瞬言葉を失った。彼の表情に緊張が走る。

「……ジロウ殿、それは随分と厳しい言い方ではありませんか?  我々は友好的な関係を築きたいと思っているのです」

 次郎は静かに、しかし毅然きぜんとした態度で応じる。

「Mr.ハリス、厳しいようですが、これが現実です。我々も友好的な関係を望んでいます。しかし現状では、貴国の方々の安全を完全に保障できません。それを承知の上で開港を急ぐのであれば、そのリスクも受け入れていただく必要があるのです」

 ハリスは沈黙し、しばらく考え込んだ。

「……分かりました。貴殿の言わんとすることは理解しました。では、どのような対策を考えておられますか?  我々の安全をできる限り確保しつつ、開港を進める方法は?」

「始めに申し上げた通りです。神戸と新潟以外の箱館・横浜(下田から変更)・長崎は条約通り居住地を設けて開港し、通常の交易をする。しかしレートは長崎を基準とする。また、問題となっている神戸の開港と大阪・江戸の開市は七年後を目処として準備をする。これでいかがでしょう。某が責任をもってこの内容で勅許を得ます」
 
 ハリスは次郎の提案をじっくりと聞き、腕を組んで再び考え込んだ。そして、やや慎重な口調で答えた。

「七年後ですか……少々長い猶予ですが、貴殿がその内容で勅許を得られると保証してくださるのであれば、我々も考慮せざるを得ません。しかし、条約通りの居住地設置と貿易が円滑に進むことが前提です。そちらの準備が整わなければ、さらなる遅延は認められません」

「もちろんです。居住地の設置と貿易に関しては速やかに進めます。神戸と新潟に関しても、約束の七年後には準備を整え、開港できるよう努めます。貴国との関係をより強固なものにするためにも、最善を尽くす所存です」




 数日にわたる議論であったが、おおむね勅許を得られるであろう内容でハリスを説得できたのであった。




 ■彦根藩邸




『露は落ち 月の光に 影はなし 清き輝き そのままにして』




 次回 第231話 (仮)『神奈川(横浜)・長崎・箱館開港とオールコックとシーボルト』

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