第260話 『幕府と列強』

 文久元年五月三十日(1861/7/7) 

 大老安藤信正は腕を組み、これまでの次郎の報告を踏まえて幕府としての見解を出そうとしていた。

れど太田和殿、撃沈はいささかことわり過ぎし(極端な)行いだったのではあるまいか」

 小栗上野介は警告に留めておくべきではなかったのか、と言いたいようだ。その理屈としては死者や負傷者の数が比較にならないほど違う点である。次郎も当然その点は理解している。

「仰せの通りにございます。行きすぎと言えば行きすぎになるでしょうし、妥当と言えば妥当となるでしょう」

 次郎は慎重に言葉を選びながら続ける。

「然れど我らが戒めを告げる(警告)のみに留めていたら、彼奴きゃつらは我が国の固き思いを十分に心得(理解)なかったでしょう。軍艦を沈めるという強き手段を取ることで、日本の主権を侵す行いに対する固き考えを、しかと示すことができました」

「それでは外交関係に悪しき名残(影響)を及ぼすのではないか」

 信正は眉をひそめた。

「然れば(だから)行きすぎならば行きすぎ、妥当ならば妥当なのです。しかと考え、考え抜いて処さねばなりませぬ」

「……|如何《いか》なる事じゃ」

此度こたび何故なにゆえロシアは対馬にてあのような無法にも乱妨な行いをしたのでしょうか。……それは一昨年のイギリス艦の二度にわたる対馬での測量と、上陸が故(理由)にございます。ロシアはイギリスが対馬を第二の香港の如くすると考えたのでしょう。イギリスの力が強まれば、すなわちロシアが弱まる事となり申す。それゆえイギリスに対馬を奪われる前に、奪おうと考えたのです」

 信正や上野介、その他の幕閣が注目する中、次郎はロシアの目的と対馬事変の原因を話し、さらに続ける。

しかして(そうやって・そう言う事で)彼奴らはイギリスが良いなら己も良いと考え、加えて日本には抗する力などないと侮っていたのです。これはロシアにとっては行きすぎではありませぬ。自国の東亜細亜での利得の権を守るための正しき行いだと言うでしょう。対して日本にとっては如何いかがか? 行きすぎどころか、あり得ぬ話ではございませぬか?」

「然に候! (そうです)」

しかり! (その通り)」

 万座が同意してうなずき、次郎の発言はさらに続く。

「では仮に、我が国が同じように、例えばウラジオストクの辺りを測量し、上陸したならば何が起きるでしょうか?」

 次郎の問いかけに、部屋中が静まり返った。幕閣たちは息をのみ、互いの顔を見合わせる。信正がゆっくりと口を開いた。

「蔵人(六位蔵人・次郎の官職)よ、それは危うき仮の考えではないか」

 と信正。

「仰せの通りにございます。然れど、この仮の考えこそが我らの置かれし立場を明らかにするのです」

「太田和殿、しかと説いていただきたい」

 次郎がうなずきながら続けると、上野介が促した。

 深く息を吐き、次郎は静かに語り始める。

「もし我らがウラジオストクにて同じ行いをなせば、ロシアは必ずや軍艦を差し向け我らを打払うのみならず、報復として武をもって我が国を脅かすでしょう」

「然もありなん(であろうな)」

 と信正がうなずいた。

「つまりは」

 と次郎は続ける。

「強き国と弱き国の間には、許される行いの範囲に大きな隔たりがあるのです。彼奴らにとっては当然の権と思えることが、我らには許されぬ。この理不尽さこそが、今回の我らの行いの根底にあるのです」

 幕閣たちの間で小さなざわめきが起こる。

「然れば此度軍艦を沈めけりはただの報復ではなく、我が国もまた、強国ならずとも主権を有し、無法は許さぬとの覚悟を示したのだ、と?」

 上野介が理解を示した。

 次郎はうなずき、さらに言葉を続けた。

「然に候。我らはいま港を開き、西洋の文物を採り入れ、決して侮られぬ国に日本をするために一歩を踏み出したのです。これより先は、この心得を固く持ち、如何に外交で事を収めるか、そして我が国の力を高めるかが肝要となりましょう」

「あい分かった。蔵人の判断は正しかったやも知れぬ。我らはこれより、この事態を機に日本の立場を世界に示す好機と捉え、慎重に、されど毅然きぜんと対応せねばなるまい」

 信正は深く考え込んだ後、静かに言った。

「然れどロシアの報復は必定。我らはいかなる手立てを講ずべきか」

 上野介が口を開いた後に、次郎が一同を見回しながら答える。

「御指摘の通り、報復は避けられぬでしょう。然れど我らには三つの利があります。一つは時。彼奴らの報復の備えが終わるまでには、相応の時を要します。二つには、我らが心立ちたるを(決意・決意したこと)示したことで、ただの力の行使では済まぬと悟らせたこと。加えて昨年結んだ条約にございます。此度の件はあきらかにロシアに非がございます」

「ほう」

 と信正が身を乗り出した。

「それを如何に活かすというのだ」

「この時を活かし、一つには海防の強化。二つには列強、特にイギリスとの外交関係の深化。三つには、ロシアとの直接交渉の準備です」

 幕閣たちの間でまたもざわめきが起こる。

「……イギリスであるか」

 と上野介が尋ねた。

 列強の筆頭であるが、対馬の無断測量と上陸の前例がある。上野介が信じられないのも無理はない。
 
 通商条約を無視して測量・上陸をしたのだ。ロシアと極東での権益がぶつかると言っても、自らが行った事を否定するような事に加担するだろうか。

「イギリスもまた、ロシアの南下を快く思わぬはず。我らの行動が、結果としてイギリスの利益にもかなう事を示せば、今回の事態への理解を得られるやも知れません」

 信正はゆっくりとうなずく。

「うべな(なるほど)。蔵人よ、よく考えたな。然れどこれらすべてを為すには、公儀を挙げての努力が要るであろう」

「然に候(そうです)。然れどこの機に然るべく処さねば、我が国は今後数十年、苦汁を舐めることとなりましょう」

「然れど……イギリス、彼の国が味方となるであろうか」

 上野介が懸念材料を述べた。




「ご案じめされるな。彼の国は、いや、彼の国等は自らに都合の悪い事は忘れる癖があるのです。加えて自国の利に関わる事は声高に求める。イギリスの対馬での件は由々しき事なれど、ロシアの方が重き大事にございます。些事ではございませぬが、こちらも忘れれば、イギリスも……自らの損得を考えるでしょう」




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