第353話 予土戦役、黒瀬城攻防戦①恐るべき元黒瀬七城と新しき防衛戦法

西国の動乱、まだ止まぬ

 永禄十二年 十月二十三日 伊予南西部 宇和郡 

 伊予の国人の調略は順調に進んでいたものの、西園寺の攻略が遅々として進んでいなかった。

 宗麟の本隊は宿毛城から伊予に入った。

 別働隊は鷲が森城より伊予に入っていたのだが、敵の防御が妙だったのだ。黒瀬城へ向かう領内の各支城が、ほとんどなんの抵抗もなく開城した。

 と、言うよりもほとんど無人の城であった。常磐城と天ヶ森城で組織だった抵抗があったものの、それ以降はまったくといってない。

 本隊も別働隊も、順当に城を落とし黒瀬城へ迫った。それが六月の十四日である。宗麟が純正から伊予と西土佐の平定を命じられたのは四月であり、すでに半年かかっている。

 純正は島津戦のために一年という期限をきっていたのだが、島津の方が先に終わってしまった。まだまだ仕置きにて問題が発生する要素はあったものの、一応の終結となったのだ。

 それに比べて四国といえば、中途半端だ。一条は服属させ西土佐は手に入った。長宗我部はその勢いを殺され、純正は浦戸を手に入れて上方への海上経由地と、軍事、経済の起点をつくれる。

 長宗我部はおまけ、と純正は言っていたので、これはおまけ以上の結果である。

 しかし伊予はそう簡単ではない。喜多郡の宇都宮は一条の盟友であったため、服属させるのは容易であった。東伊予の国人は戦に加わらず陣払いをした。それをもって河野が決断し、服属となった。

 ただ、簡単に抜けると思っていた西園寺が、おかしい。

 南から宗麟の本隊の五千と一個旅団の合計一万一千。東から別働隊の三千と一個旅団の合計九千。あわせて二万の大軍で囲んでいるにもかかわらず、黒瀬城が落ちないのだ。

 後発して戦場に布陣した宗麟が、その理由に気づくのに時間はかからなかった。

 黒瀬城は北側に肱川と根笹川が交差する平野の、南にある山頂にある。

 さらに北側の黒瀬城を筆頭に、尾根伝いに六つの支城によるコの字型に城郭群を構成しているのだ。それぞれが援助しあって攻め寄せる敵の攻撃を防げるようになっている。

 普通なら城郭群ごと包囲をし、じわじわ包囲を狭めながら攻めれば良い。南側に広がる伊賀上の平野から、または北東の肱川沿いの平野から主城の黒瀬城へ向けて攻める。

 そして北西の根笹川沿いに広がる神領から野田の平野に陣を張り、岡城または鉢ヶ森城を落とす。

 今回は南から北上する本隊と、東から西進する別働隊によって攻める訳だが、行軍経路は山間の隘路だ。それでも宗麟の本隊は途中の板島城までは問題なく進軍できた。

 街道沿いであったため、小佐々領ほど広くはないが馬や荷車、大砲の運搬も滞りなくすすんだのだ。

 しかし敵は皆田村、伊賀上村、稲尾村、下川村の街道沿いの峠と、隘路になっている肱川沿いの平野部に防御線を何重も設け、進軍を阻んだ。

 三滝城から西進して伊予に入る別働隊も、城はすんなり落とせたが、わざと落とさせて油断を誘う作戦だったのかもしれない。

 本隊経路と別働隊経路は途中で合流している。肱川沿いに野村、大宿村、魚成村、下相村、土居村、古市村、川津南村、窪野村と塹壕を掘り、黒瀬城の本丸が大友軍の大砲の射程に入るのを阻んでいるのだ。

 三千前後の西園寺兵が、その塹壕に散らばって持久戦の構えをみせ、いっこうに攻めてくる気配がない。そしてそれは肱川を渡った北側の岩木村、信里村まで広がる平野部も同様である。

 城の周囲を長大な塹壕群で囲っているのだ。黒瀬城を中心にして直径10kmで輪を何重にも重ねるような塹壕であれば、到底作れない。

 しかし、城の周囲は隘路だらけだ。北側は平野があるが、それも入り口は隘路になっている。直線距離でいうと、不可能な長さではない。

 さらに驚いたことに、城内の家族などは本丸ではなく、防衛線の中心に集まっていた。いわば大砲の射程外で鉄砲も届かず、何重もの塹壕に守られた城下町にいるのである。

 普通であれば、逃げる。

 隘路での戦闘は大軍の利をいかせないので不利であるし、山間部は獣道しかないので馬や大砲の移動は無理である。

 歩兵のみとなるが、大軍を進ませるには適しておらず、実際にそれを試みて被害もでている。

 陸が駄目なら海からという事で、宗麟は海軍に砲撃の命令を出した。しかしこれも、南の法華津より砲撃を試みたが、手前に落ちるばかりで本丸には届かない。

 もっと岸に近づければ、命中するかもしれないが、座礁する危険がある。西の奥地の湾は岸から8kmと離れている上に、遠浅で船が近づけない。

 宗麟が大砲を初めて実戦でみたのは6年前の永禄六年の正月、有馬・大村連合軍との戦いであったが、その時は雨で使い物にならなかった。

 さらにぬかるんだ道に助けられ、鹵獲もできたのだ。

 これが小佐々戦で使われた大友砲の原型なのだが、もっとも最終的に完成をみるのは盗んだ絵図面を手にしてからであった。

 あれから六年、様々な合戦で、海と陸で大砲が使われてきた。

 どうすれば大砲を防げるのか? どのような策が必要なのか? それを考え見事に完成させている。

 海を隔てた小国の西園寺が考えていたとは。宗麟は敵ながら、西園寺公広がどのような男なのか気になっていた。小佐々戦でわれらも同じようにしていれば、あるいは……。

 いやいや、今そのような事を考えても詮無きこと。どうやってこの防衛網を破るかを考えなければならない。殿に与えられた時間は残り半年だ。そう考えて思考する。

 塹壕が掘られ、何重もの防衛網が構築されているとしても、西園寺軍は三千である。二万の軍が一気に攻撃すれば突破できるだろう。ただ、損害が大きいのだ。

 攻めなければならず、それしか方法がないなら突撃しかない。ただしそれは最後の手段だ。何かないだろうか? 考えているがなかなか妙案が浮かばない。

 それにしても、妙である。半年にはいたっていないが、兵糧や矢弾が切れたという話を聞かない。河野・西園寺と一条・宇都宮は緊張状態にあったとはいえ、大きな戦は小佐々(大友)が参戦してからだ。

 その間、準備する時間は潤沢ではなかったはずだ。いつ、どこでそのような準備をしたのだ? 毛利か? いや、考えるとすれば、毛利しかいないが、どうやって?

 宗麟の疑問は深まるばかりだ。

 支援するにしても、東は河野、南は一条がいるので無理である。残る道は伊予佐田岬と豊後の間にある速吸の瀬戸だが、昔から大友の佐伯湊の佐伯水軍が制していた。

 通過して黒瀬城へ運ぶなど無理だ。では、どうする? 伊予に渡るには防予の島々、芸予の島々を越えていかなければならない。しかし、越えたとしても敵である宇都宮がいる。

 意味がない。どういう事だ? まさか物資を上陸させて、宇都宮領を素通りしている訳でもあるまいし……。

 ……! まさか、な。宗麟は頭にあった考えが、あり得ないと思いながらも、消去法で考え、一つの結論に達したのであった。

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