第354話 予土戦役、黒瀬城攻防戦②毛利元就が生きていたならば

西国の動乱、まだ止まぬ
毛利元就

 永禄十二年 十月二十三日 安芸 吉田郡山城

「なに! それは誠なのか? 誠に負けたのか?」

 世鬼衆の報告を受け、毛利輝元はじめ小早川隆景や吉川元春は驚きを隠せない。しかしその驚きは、負けたという事にではない、こんなにも早く決着がついた、という事にである。

 毛利としては、小佐々が北九州なら南九州は島津だと目していた。小佐々対島津の構図で、しかも小佐々は四国に出兵している。その四国への出兵も、本来であれば一条からの要請がなければなされていない。

 その結果、河野をはじめとした伊予の国人の服属、一条の服属もあわせて長宗我部の浦戸割譲となった。結果的に小佐々の国力を増加させているのだ。すでに石高でも毛利全体を超えている。

 毛利家中には危機感しかない。だからこそ次の一手、その次を打っていたのだ。

 それにしても、小佐々と島津は距離を保っていたはずである。

 このまま半年や一年はおろか、四年、五年は均衡が保たれると、誰もが踏んでいたのだ。小佐々は本来であれば四国を短期で終わらせ、島津との長期戦を見据えていたはずであった。

「政忠よ。どのような経緯なのじゃ、詳しく申せ」

 元就に若年から仕え、毛利の諜報を長年になってきた世鬼正時は、元就の後を追うようになくなっていた。政忠は嫡男であり世鬼一族の当主として、輝元を支えている。

「は、されば当初、小佐々は伊東、相良、肝付の三国連合を支援する形で間接的に関与しておりました」

 うむ、と三人が政忠の話を聞きながらうなずく。

「これは四国と南方出兵の兼ね合いがあります。兵を分散しては、島津と対等に戦えないと考えたのです」

 交易だけではなく、出兵もしている、と聞いた時は三人は大いに驚いた。しかし、直接関わりがなかったため気にしていなかったのだ。

 ただ、実際には南方へ進出できるだけの海軍力と資金力、軍事力があるという事になる。

「そして時間を稼ぎながら四国を終わらせ、南方が一段落した後に、島津と雌雄を決する腹積もりだったようです」

 事実、五年とは言わないまでも、二年から三年は猶予があると、純正も考えていたのだ。

「ところが島津が大隅の肝付を奇襲にて打ち破り、一気に情勢は変わりました。三方から島津を囲むという大計が崩れたのです。大隅が平定されれば力の均衡は崩れ、連合が不利になります」

 そうならないように、島津の主力が来た場合には適宜対応し、他の二方面から島津を攻めるというのが連合の戦略であった。しかし、肝付を襲ったのは主力ではない。

 さらに主力と対面した相良は順次撤退し、決戦をするべきではない局面で伊東が島津に決戦を挑み、大敗したのだ。

「伊東は、昨年、木崎原でも負けなんだか」

「は、十倍の兵にて負けましてございます」

「なにゆえこたびは功を焦ったのであろうの。いやいや、そんな事はどうでもよい、それでどうなった」

 輝元は伊東義祐の行動を不思議に思いながらも、政忠に続きを聞く。

「は、肝付は種子島に助力を乞うたそうにございます。そして種子島は小佐々と盟を結んでおり、対岸の火事ではないという事で、参戦にいたったようにございます」

「なるほど。それでいくさの流れはどうなったのじゃ。あの島津が簡単に膝を屈するとは思えんが」。

 島津は鎌倉よりの名家で三州守護としての自負もあり、四兄弟はみな有能である。勝敗は兵家の常とは言え、ここぞという時には勝利して、薩摩を統一して大隅をじわじわと圧迫していたのだ。

「はい、まず小佐々は水軍にて海沿いの城を攻撃いたしました」

 うむ、と輝元たちがうなずいたのを見て、政忠は続けた。

「島津はかねてより南方や明との商いにて富を得て、鉄砲などの武器を取りそろえておりました。大筒と呼ばれる大鉄砲もありましたが、小佐々の大筒にはまったく歯が立ちません」

「どう言うことだ」

「はい、島津の大筒はおおよそ五町から七町飛ぶのですが、小佐々の大筒はさらに飛びまする。おおよそ一里は飛ぶのです」。

 島津の大筒は……でざわついた場は、一里と聞いてさらにざわついた。

「一里とな? それは誠か? まこと、一里も飛ぶのか」

「誠にございます。そうして島津の台場や城はことごとく打ち壊され、もはや島津は抗いようがなく、陸戦は一度もせずに下りましてございます」

 なんと……。三人とも言葉がなかった。父である元就の『小佐々とは事を構えてはならぬ』という言葉は、やはり正しかったと言えよう。

 しかし、河野の件といい伊予の国人の件といい、結果的に毛利に悪いように働いている。このまま遺言を守っていては、毛利は衰退の一途をたどるかもしれない。

「叔父上たち、これで良かったのでしょうか。不可侵の盟を攻守の盟に上げて、ともに歩む道もあったのではありませぬか」

「良いも何も、過去の事を悔いても仕方がない。河野の件が尾をひいておるのだ」。

 元春が言う。

「さよう、大事なのはこれからどうするかじゃ」

 隆景も同意して、今後の対策を練ろうという。

「して、伊予の件はうまく運んでおるのか?」

「は、問題ございませぬ。小佐々が戦に加わる前からの謀にて、時期が重なったに過ぎません」

 隆景の問いに政忠は、断言する。

「このまま四国の戦いが長引けば、純正はしびれをきらして、さらに大軍を投入してこよう。その時を逃してはならぬ」。

 隆景は政忠に、再度確認のために聞いた。

「しかし、その機がいつかわかるのか? それに薩摩の国衆が動こうか?」

 元春が聞く。

「兄上の心配はごもっともにござる。なに、わからずともよいのです。純正が四国へ大軍を動かし、そして薩摩の火種が燃え上がった時にこそ、われらが門司へ向かえばよいのです」

「そう……うまく行きましょうや」

 輝元は心配している。元就の子である隆元がなくなって、毛利家の当主となったものの、優柔不断で叔父である吉川元春と小早川隆景の両川に支えられていたのだ。

「輝元よ、いや殿。ここは腹を決めることが肝要です。なに、上手くいかなくともわれらに害はありませぬ。動かねば良いだけの事。それに仮に戦になったとて、最後は織田の力を借りましょう」

 織田信長は、実は毛利とも親しかったのである。

 桶狭間で今川義元を破った考えは、毛利の厳島の戦いを参考にしたという。元就の葬儀の際も、弔問として使者を送った事がわかっている。

 最悪、南九州で争乱が起きなければ動かず、伊予での件は知らぬ存ぜぬで通せば良い。そして小佐々とのさらなる親交はそれからでも良い、と隆景は考えていた。

「わしは軍略においては自信があるが、謀に関しては隆景には及ばぬ。ゆえによほどの事がなければ従おう。しかし、小佐々純正という男、いちど戦場にて刃を交えてみたいものよ」

 わはははは、と笑いながら元春が言うと、「叔父上、冗談でもやめてください」と輝元が苦笑にもならぬ顔で応えた。

 毛利、小佐々、島津の三つ巴、となるのであろうか。

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