遡ること一年、1568年8月 リスボン王宮
永禄十年(1567年)に派遣した第六回遣欧留学生の代表者が、ポルトガル国王セバスティアン一世に謁見した。
セバスティアン一世にとっては、日本人の留学生の使者に会うのは六回目であるが、滞在している留学生とは何度も謁見をしているので、さして珍しいものではなかった。
そのころになると、留学生の総数は八百名ほどにのぼり、それでも珍しいものではあったが、以前のような偏見は多少なくなってきていた。
なにより、国王であるセバスティアン一世が若年で聡明であった事が留学生、小佐々純正に有利に働いた。
宗教的な問題はあるものの、セバスティアン一世自身がカトリックとプロテスタントの親和政策を推進しており、日本人を異教の徒と決めつけ差別するのではなく、友人として扱ったのだ。
当時のキリスト教社会においては、異質の存在だったのかもしれない。しかし、留学生の中にもキリスト教に改宗するものも多かったのは事実である。
純正はその点、シビアであった。帰国した留学生にまず質問を行い、改宗したかどうかの確認を行い、自らの統治に支障がでないかどうかと厳重に監視したのだ。
監視というとプライバシーを重視する現代人らしくない、と思われるかもしれないが、キリスト教の教義が日本侵略に使われるかもしれない。
それを危惧していない、といえば嘘になる。
事実、当初純正はキリスト教への改宗を認めてはいなかったが、完全なるキリスト教社会である。留学して学び、吸収して持ち帰るには必要不可欠だと考えたのだ。
もちろん、国内の宣教師やキリシタンと同じように、政治活動には一切関わらせない。発覚した場合は審議の上で罰をくだした。
しかし純正の認識では、キリスト教関連の暴動? は領主(キリシタン大名)が傾倒しすぎて神社仏閣を破壊したり、または極限まで行われた搾取のすえ、地上の楽園(天国)をつくろうとした暴動である。
教義にキリスト教以外は邪教であり、敵であり、殺してもいいもの、等の理不尽な教えがない限り問題ないとした。
また、善政を敷いて一揆や謀反など起こすことが馬鹿馬鹿しいと思えるほど、領内を豊かにしたのだ。
拝啓
ポルトガルの偉大なる王セバスティアン一世陛下
いかがおすごしでしょうか? 肥前王小佐々弾正大弼純正です。はじめて使節を派遣いたしました1562年より、5年の月日がたちました。
かわらぬ親交を続けてくださり、感謝に堪えません。ここにわが領国における諸々な報告と、今後の提案を致します。
私の領国では多くの研究が開始され、新しい技術も完成しました。
その中でも特に石けんの製造、鉛筆と硝石の研究、さらには陛下の臣下の方々によって伝えられたガラス技術の開発が進行中です。
ガラスにおいては望遠鏡や測距儀など、大いに利用価値があり重宝しています。
また、新たな農業技術の研究開発、特に椎茸(マッシュルーム?)や切り干し大根(カブ?)の栽培法、そして葡萄酒やジャムの製造も研究が進められています。
ルイス・アルメイダ殿のおかげで、横瀬浦に簡易的な学校が設立されました。
そこでは航海術、測量術、砲術などの技術が伝授されています。そして、アルメイダ殿による医学校も私の領国で設立されました。
これにより、医薬品の製造研究や注射器、顕微鏡の製造研究が行われています。
さらに、わが領国は経済的な成長を遂げております。
それにともない、船の建造技術の向上や新型織り機の研究、そしてセメントやコンクリートの研究が進行中で、実用化も進んでいます。
しかし、私たちはまだ学ぶべきことが多く、ポルトガルの先進的な技術と知識には大いに感銘を受けています。
最後に、ポルトガルとの友好関係と協力関係をさらに深めるため、人材の交流を盛んに行う事を提案いたします。
ご公務にお忙しい中、私の提案を検討していただけることを心より願っております。
敬具
肥前王小佐々弾正大弼純正
セバスティアン一世は若く有能であり、宰相のドン・エンリケと協力して、反対派を弾圧するのではなく懐柔して結束を強めた。
さらに国民の生活状態を配慮する姿勢が評価されて、絶大な人気を誇っていたのだ。
孫子の他に戦国策や韓非子、善政を敷くあたりは論語を贈ったのが良かったのかもしれない。名君となったおかげで、無益な戦争でアフリカで死ぬことはないだろう。
そのセバスティアン一世は、親書の内容をみて驚いていた。正確には、そこに記されている文言である。
石けんはわかる。ポルトガルでも使われているものだ。
だが、鉛筆とはなんだ? 硝石の研究とは? 硝石は火薬の原料であることは知っている。あれはとれるものだ。研究とはなんだ?
望遠鏡? 測距儀? なんなんだこれは? 注射器? 顕微鏡? セメント? コンクリート?
コンクリートは聞いた事がある。遙か昔のローマの時代に建造物や道路に使われていた物だ。
まさに、驚愕である。
このような物は、いや言葉、概念すら存在しない。いったいジパングの肥前とはどういう国なのだ?
親書を渡した後、謁見した留学生代表が進呈品を贈った。
一つ目は鉛筆である。さすがに現代の鉛筆と全く同じではないが、まずは木炭と粘土を混ぜて乾燥させて焼く。その後細長い木に四角い溝を切り、四角く削った芯を入れて木で蓋をした。
史実では1565年にイギリスの北カンパ-ランドのボロ-デール鉱山で良質の黒鉛が発見され、最初の鉛筆製造が始まっている。
なんだこれは? イングランドで発明されたと聞いた事があるが、これなのか? (厳密には黒鉛ではないので違う)
二つ目は望遠鏡である。望遠鏡は1608年、オランダのリッペルスハイという人が発明して急速に広まるのだが、当然1568年の段階では存在しない。
三つ目はフリントロック式のマスケット銃である。
この時代、フリントロック式の銃はまだ存在しない。17世紀の初頭に開発されたもので、当時は、いわゆる銃といえば火縄銃なのである。
火縄が……ない。なんだこれは?
セバスティアン一世はポルトガルを先進国と敬い、慕ってくれる国の王で、領主である純正を好意的に見ていた。
しかし、この親書と贈答品の数々をみて、考えを改めざるを得なかった。この六年で一体何があったのだ?
これは、なにか異変が起きている。今、手を打たなければ取り返しがつかない事になる。そう予感したのだ。
セバスティアン一世は極東の国である日本へ、純正へ親善大使と艦隊を派遣する事を決定した。
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