永禄十二年 十二月二十八日 諫早城
十二月十日に宇都宮豊綱の造反並びに職務怠慢が公になり追放された。
その後引き続き長谷口から南の黒瀬城へ向かう街道は封鎖され、南の板島城から北へむかう吉田口、東の三滝城からの土居口も同様に完全に塞がれたのだ。
当初はそれぞれの隘路に位置する街道に巧妙に塹壕を掘り、持久戦術をとって大友軍と小佐々陸軍を悩ませていた西園寺軍である。
しかしそれは、宇都宮を通じた毛利の支援があっての賜物であった。
十日の豊綱の処断の後、すぐに降伏勧告の使者が黒瀬城を訪れた。実のところ、長引く包囲戦で西園寺側の士気が全く落ちていないわけではなかったのだ。
いずれ毛利が助けにくる、いずれ小佐々は島津との戦で四国どころではなくなる。
そう信じて戦ってきたのが事実である。情報は兵糧の糧道とともに遮断され、長谷口からでさえも正確な情報は知り得なかった。
すでに島津は敗れ、反乱も鎮圧されて九州は小佐々のもとに統一されていたのだ。
閉鎖環境の中にある公広に、正しい情報が届くはずもない。毛利は、自身の東進のために、宇都宮だけではなく西園寺も利用したのだ。
今、純正の目の前に2人がいる。四国の事は宗麟に任せてはいたが、塹壕戦を考えた者と西園寺公広に会ってみたかったのだ。
「苦しゅうない、面を上げよ」
そう言って純正は2人の顔を見る。1人は30代半ば、もう1人は20代半ばであった。
公広は自分の命と引き換えに家族と家臣の助命を願い、清良は塹壕作戦を指揮した責任者として追い腹を切るつもりなのだ。
「西園寺左近衛少将公広にございます。こたびはそれがしの願い、お聞き届けくださり、誠にありがとうぞんじます。この上はいかような処分も、甘んじて受け入れまする」
純正はうむ、とうなずき、土居清良の方を向く。
「それがしは、土居式部少輔清良にございます」
純正は2人をながめて、言った。
「こたびは、毛利にいいようにやられてしまったの。なに、家を守るためにはより強い方に、より条件の良い方につくのは仕方のないことじゃ」
純正は昔の自分を見るようであった。
「毛利がどのあたりで調略を仕掛けてきたかわからぬが、もともと毛利の支援で戦をしておったからの。味方の言を信じたくなってしまうのも、無理からぬ話じゃ」
しかし、と純正は続けた。
「家の行く末を考える時には彼我の力、そして何を捨て、何を得るかを考えねばならぬ。今までの義理やつきあい、利や大義名分とを天秤にかけねばならぬ」
純正はにこやかに話す。
「左近衛少将どの、よく決断してくれた。これで無為な戦をせずにすむ。無為に命を落とす兵もおらぬ」。
2人は死ぬ覚悟をして諫早に来たのだ。
伊予の宇和島湊から佐伯湊へ護送され、そこから護送用の馬車に揺られて諫早までやってきた。到着後は時間をもらい、白装束に着替えて辞世の句を詠んだ。
2 人には、柔和な顔で笑いながら話す純正の意図がわからない。
「二人ともよく聞いてくれ。俺は武士の誇りを軽んじる気持ちはない」。
純正が断言する。
「ただ、その命を賭する行いが無駄か否か、それが肝要なのじゃ。戦の前に降る者、戦って降る者を殺しはしない。だが、二回目はないぞ」
「そ、それはいったいどういう……?」
2人は顔を見合わせる。
「そのままの意味だ。おぬしらの死を賭して家や家族を守ろうという気概を軽んずるのではない。問題は、おぬしら二人が死んでも戦で死んだ者は生き返らない、という事だ」
2人にはまだ理解できないようだ。
「要するに助ける、という事だ。助かった命を残った者のために使ってくれ」。
「……はは、これは予想外のありがたき仰せにて、この公広、ご恩に報いるべく、身命を賭してお仕えいたしまする」
二人は平伏して純正の言葉を待つ。
「それで、どうやってあの塹壕を思いついたのだ?」
は、と公広が言い、清良の方を見る。
「それにつきましては、この清良がご説明いたしまする」
うむ、と純政が促す。
「はい、さればそれがし、昨年より九州を周り旅をしておりました。そうしましたところ、海軍の台場において、砲撃演習というものを目にする機会がありましてございます」
「ほう」
純正はニヤリと笑い清良を見る。
「まずはその音、この世の物とは思えぬ代物にて度肝を抜かれ申した。聞けば五、六町ほども飛ぶというではありませんか」
五、六町というのは仏狼機砲の事であろう。改良して少しは飛距離が伸び、射撃間隔が短いのが利点ではあるが、どうしても密封性の問題が解決できていない。
そのため安全性と飛距離に勝る前装式にその座を譲っているのだ。仏狼機砲は主に沿岸警備用の船舶や、重要度の高くない城塞などに配備されている。
後装式が主流になるには、まだずいぶん後の事である。
一里以上飛ぶのはカルバリン砲とセーカー砲だ。仰角をあげることで飛距離は伸びるが、命中精度は落ちる。
そのため圧倒的な火力でカバーするしかないのだ。
セーカー砲はカルバリン砲より小型だが、炸薬量を増やし砲身を長くする事で、威力は落ちるが飛距離が伸びた。
カノン砲はその逆である。威力はあるが飛距離が3つのうちで一番短い。
そういった各種大砲や砲台の訓練は定期的に行っており、領民にとっては音なし花火のような風物詩になっている。
もちろん危険範囲には人を入れないように、厳重に注意している。
大砲は純正が早岐瀬戸の海戦で使用したのが日本初であった。その前に有馬・大村連合軍が龍造寺戦で使用を試みたが、悪天候のため使えず、敗退している。
その後の俵石城攻めや大友戦でも使われ、長宗我部戦や島津戦でも使われた。
大友や島津は仏狼機砲を模倣し対抗したが、改良した仏狼機砲や新型カルバリン砲には勝てるはずもなく、敗退した。
清良がみたのは大友戦までであろう。という事は仏狼機砲である。カルバリン砲などの長射程の大砲の出現を見据えて塹壕を掘ったのだろうか?
それとも昨年9月に製造を始めた新型砲の訓練をいっているのだろうか。
カルバリン砲やセーカー砲、カノン砲は、実戦では長宗我部領であった安芸郡沿岸部での使用が初めてである。
「その後、領内に戻り、もし敵が大砲を使って攻めてくれば、城壁などは役にたたない。どのような戦いをすれば味方に利し、敵が嫌がるようにできるかを考えておりました」
発想が、すごい。近代城郭や塹壕戦を始めた人達は、こういう発想をする人達だったのだろうか、と純正は考えた。
「どうじゃ、式部少輔殿(清良)、おぬし、俺の元に来ないか?」
清良はハッとして公広を見る。
「は、格別のお引き立て、誠にありがとう存じます。されど我が身は命は差し出せど、左近衛少将様(公広)の臣下にございます。身共の自由にはなりませぬ」
「ははは、わかっておる。律儀であるな。どうであろう左近衛少将殿、物呼ばわりするつもりはないが、式部少輔殿をおれにくれぬか」
公広は驚き、戸惑っていたが、やがてこう話した。
「この上ない幸せと存じます。わが家臣より弾正大弼様の御目にとまり、御側で仕えさせていただくとは、何という栄誉にござりましょうや。清良の身、なにとぞよろしくお願い申し上げまする」
こうして土居式部少輔清良は伊予から肥前へ移り住み、戦略会議室のメンバーとして辣腕を振るうことになる。
西園寺公広は、史実では伊予西園寺家最後の当主であったが、宇和郡上松葉・下松葉・松葉・皆田、伊賀上の五カ村で二千三百四十一石とした。
宇和郡の代官として働く事になるので、宇和郡の収益いかんによっては俸禄も増える。
最終的には表高(石高と銭の俸禄の合算で)一万石をゆうに超えるようになり、幕末(?)まで続いた。公広が為政者として有能だったのだろう。
コメント