第225話 『反井伊直弼』

 安政五年九月十四日(1858/10/20) 江戸城 御用部屋

「|掃部頭《かもんのかみ》殿(井伊|直弼《なおすけ》)、|如何《いかが》なさいますか」

 井伊直弼により老中に再任された松平|乗全《のりやす》が聞く。

「|癪《しゃく》ではあるが、大村の次郎左衛門が申すのも一理ござろう。ハリスに対しては再度交渉を行い、別の港を選ぶか、もしくは期限を延ばす事を良しとするよう説くしかあるまい。然れど問題は……」

「一橋派とその一味にござるな?」

 間部|詮勝《すけかつ》が続いて補足した。

 詮勝は乗全とともに直弼の推任で老中となっているが、他に太田|資始《すけもと》も同様に直弼の推任であった。

「今となっては、処分の是非は別として、命を下してまだ半年も経っておらぬ。その上で許すとなれば、公儀の沙汰の重きがなくなりましょう」

 内藤信親が言う。

 直弼は次郎より松平春嶽や水戸斉昭親子、一橋慶喜の隠居謹慎、登城停止の命令を再考するよう要望を出されていたのだ。しかし、出した命令を簡単に撤回などできない。

「処分の是非、ですと? 内藤殿は掃部頭殿の下した命が間違っておるとでも仰せなのか」

「そうは申しておりませぬ。為政者が変われば命が変わるが如く、良し悪しではなく、簡単に覆らぬからこそ、命の重さがある、といいたいのだ」

 間部|詮勝《あきかつ》の反論に内藤信親が正論で答えた。

「某は内藤殿の意見に|同《どう》じまする(賛成する)。処分を下したとて、その是非は後世に委ねるもの。為政者が変われば命もかわります。加えて公儀の重みは、柔をもって保たれるべきもの。過ぎたる罰は反発を生み、事様(状況)を悪しと成す事もあろう」

 太田|資始《すけもと》が静かに口を開いた。資始は井伊の推挙で老中となったが、その厳しい処分方針には異を唱えていたのだ。

「太田殿、それでは一橋派や水戸派が再び力を得る隙を与えることになりませぬか? この機に彼らの息の根を止めるべきではないか」

 間部詮勝が食い気味に反論したが、脇坂安宅も太田に同調して口を開いた。

「然れど今は内憂外患の折。特に内憂を大きくせぬためには、厳しい沙汰が必ずしも最善ではございませぬ」

「然に候。然ればこそ慎重に事を運ぶべきです。厳罰をもってしても、一橋派や|攘夷《じょうい》派が完全に黙する訳ではない。むしろ同じる輩が増え、内乱を招く恐れがある」

 井伊直弼はこの議論を聞きながら、真剣に考え込んでいた。次郎左衛門の進言もあり、彼の頭の中には様々な思案が巡っていた。やがて、静かに口を開く。

「太田殿の仰せにも一理ある。罰が過ぎれば、反発は確かに強まるやもしれぬ。然れど今は公儀の威信を守らねばならぬ時でもある。一橋派の動きを見誤れば、彼らが幕政に再び影響力を持つ危うさもある」

 さらに直弼は一呼吸置いて続ける。

「春嶽や一橋慶喜の処分はこのままとするが、事態の成り行きを見守ることとする。水戸の親子についても同様だ。然れどもし彼らが何か動きを見せるならば、我らも断固たる処置を講じる」

 処分はそのまま、様子を見るという事である。どうやら見せしめの意味も含めて、今後同じような者達がでないようにするためだろう。今後の安政の大獄は、状況が変わるのだろうか。

「太田殿、ちなみに伺いたいが、|此度《こたび》の松平春嶽の隠居謹慎、一橋慶喜の隠居謹慎、水戸のご老公の謹慎、水戸殿の登城停止、尾張殿の隠居謹慎、|如何《いか》なる罰なら妥当とかんがえる?」

「隠居は厳しすぎます故、折を見て許すとして謹慎が妥当であろうかと存じます」

 ■大村藩庁

「ご英断にございました」

 次郎は薩摩藩からの申し出を保留にしたことを純顕から聞かされ、そう答えたのであった。例の如く右手には利純が座っている。

「して、如何いたす? このままでは薩摩守殿は兵を挙げて京へ向かわれるぞ」

 純顕は利純と協議の上、次郎ならば絶対に与しないであろうとの判断で、市来四郎に助力は出来ぬと伝え薩摩へ帰らせていたのだった。

「は、然れば掃部頭様(井伊直弼)も黙ってはいますまい。公儀の威信にかけて島津を朝敵とし、全力をもって薩摩を相手に戦となると思われます」

「いずれが勝つであろうか?」

「それは分かりませぬが、兵の練度並びに戦道具では島津家中が勝っておりましょう。然りながら京都となれば兵站の問題もありますし、兵力で考えれば明らかに公儀が勝っております。長戦となれば、島津家中とて危ういと存じます。それよりも国を分けた内乱にございますれば、諸外国につけ込まれます。絶対に避けねばなりませぬ」

「うむ……然れば、止めねばならぬな。……次郎、行ってくれるか?」

「はは。身命を賭してお役目を果たして参ります。然りながら、……加えて申し上げたき儀がございます」

 次郎の顔は険しい。本来であれば言いたくない事なのだ。しかし当事者2人を前にして、襲撃事件の真相を報告しない訳にはいかない。現在も、調査は続行中なのだ。

「なんじゃ?」

「先頃起こりました、我ら三名の襲撃の儀につきまして、新たな事がわかりましてございます」

 純顕、利純ともに身を乗り出す。

「端的に申し上げますれば、その|幇助《ほうじょ》が彦根藩、金を出せりが江戸市中の大坂屋、然る後襲撃に及んだのが水戸の脱藩|不逞《ふてい》浪士にございます。もっとも井伊家中と水戸の家中のつながりはなく、ただお互いの思惑が合致し、事に及んだと思われます」

「なんと……」

「おのれ井伊め、我らになんの恨みがあって|斯様《かよう》な仕儀となるのだ? 皆目分からぬ」 

 純顕は冷静に驚き、利純は怒りを露わにした。いや、純顕は表に出していないだけで、相当な怒りを感じているのかもしれない。膝の上の拳が震えている。

「某が考えますに、掃部頭様は我らに害為すおつもりではなかったのではないでしょうか。如何に公儀のやりように口を出し、交渉に立ち会っていたとしても、それだけで斯程のことを成すには道理がたちませぬ。恐らくは脅すのみではなかったかと存じます。大坂屋も同様にございます。然りながら水戸の浪士においては、自らの攘夷を成すために、行きすぎた行いとなったと考えます」

「あい分かった。いずれにせよ、この儀はすぐには決められぬな……。まずは薩摩守殿の挙兵を防がねば。次郎、頼むぞ」

「はは」

 次回 第226話 (仮)『島津斉彬と朝廷の反幕府勢力。そして水戸藩の動き』

コメント

タイトルとURLをコピーしました