安政六年一月十四日(1859/2/16)
「なんと! そないな事があらしゃったのですか?」
次郎襲撃の報をうけた岩倉具視は、安否を確かめるべく大村藩京屋敷へ急行したのだが、当の次郎は平然として、いたって元気であった。
その次郎から事の成り行きと江戸での襲撃について聞き、驚いたのだった。
それもそのはず、仮にも幕政を司る大老の腹心が、幕府に批判的な藩の藩主やその家族、そして家老を襲うなどありえない。1度ならず2度までもだ。
この件をどうするか岩倉に聞かれた次郎は、交渉の材料にすると答えた。井伊直弼を大老職から退かせるとともに、彦根藩と水戸藩に賠償金を請求すべきだという岩倉に、次郎は一定の同意をした。
しかし次郎は単に失脚や処罰、罰金を考えるのではなく、それをエサにこちらの言い分を通そうというのだ。勅許だけでは、いったん罰を軽くした後に、またなんらかの罪状で罪に問うかもしれない。
そうすれば幕府は勅許に違反した事にはならないからだ。
だから、そんな事をすれば暴露するぞ、と脅すつもりである。
■江戸城
勅により大老井伊掃部頭直弼に命ずる。
諸侯の不時登城の件について、命に背く咎(罪)ではあるが、その憂国の誠を察するに状況を考慮して罪を軽減し、天恩を示すべきである。
徳川権中納言斉昭
一橋刑部卿慶喜
徳川権中納言慶勝
徳川権中納言慶篤
松平左近衛権中将慶永
右の者罪一等を減じ、国事に努めるよう命ずべし。諸侯に命じて力を合わせ、国の命脈を守らせよ。争いは国に患いをもたらすゆえに、厳に慎むべきである。
安政六年一月七日
岩倉具視が勅を読み上げ、次郎は控えている。その読み上げられる勅を聞きながら、みるみるうちに井伊直弼の表情と態度が変わってきたのが誰の目にもわかる。
岩倉が勅を読み上げ終わると、井伊直弼は形式的に頭を下げた。
「勅命、謹んで拝承いたしました」
直弼の声は低く、表情には僅かな緊張が見られた。それを聞いた岩倉は淡々とした口調で言う。
「勅は確かに伝えましたぞよ。加えて此処なる次郎左衛門殿がそちに話があらしゃいますようで、麻呂は控えの間にて休んでおるゆえ、存分にお話されよ」
部屋には井伊直弼と幕閣、そして次郎だけが残された。空気が岩倉の退室とともに凍りついたように張り詰めた。
井伊は目を細め、次郎をじっと見つめる。その眼差しには警戒心と同時に、少しの怒りが含まれていた。
あのような別れ方をしたというのに、今度は朝廷の勅書まで使って、一体何を考えているのだ。
それが直弼の本心であった。
「では、次郎左衛門殿。どのようなご用件でしょうか」
直弼は深呼吸をしたあとに、冷静に次郎に問いかけた。声は冷静さを保っていたが、その底に潜む緊張感を次郎は感じ取った。
「では掃部頭様、まずはこれをご覧ください」
そう言って次郎は向かって右手に江戸襲撃犯の協力者、左手に京都での襲撃者の写真を並べて差し出し、直弼と幕閣に見せたのだ。
「こ、これは面妖な!」
「人相書きにしてはなんと克明な!」
口々に言葉を発する幕閣をよそに、直弼は無表情で、黙ってみている。
「これは写真という物で西洋の機械で作った物でございますが、大村の我が家中にて研究して作り出したものにござます。こちらの右手が江戸にて某達が襲われた事件の協力者にございます。すでにこの協力者から、誰が金を出し、誰が命じて誰が行ったのか、詳らかになりましてございます。加えて……」
次郎は直弼の表情を確認しつつ、ゆっくりと話したのだが、直弼は微動だにしない。
「然様か」
「そしてこちらが、某が先日京都にて襲われた際の下手人達にございます。その後某はすぐさま行いを起こしましたゆえ、こちらは案外簡単に調べがつきましてございます」
「……」
まだ、動かない。
「掃部頭様、出来ますればお人払いをお願いできますか」
「なんと! 無礼であろう!」
「そうだ! 陪臣風情が何を偉そうに!」
立ち上がって次郎を非難する幕閣に対し、直弼は静かに言う。
「まあまあ、方々。ここはひとつ、お願いいたす」
事と次第によってはここで全部暴露しても良かったのだが、次郎は直弼に貸しをつくったのだ。直弼もそれを敏感に感じ取り、人払いをさせた。
幕閣たちが退出し、部屋には直弼と次郎の二人だけが残された。静寂が流れる中、直弼はゆっくりと次郎を見つめた。
「さて、次郎左衛門よ、いや、太田和殿と言っておこうか。人払いは済ませた。何をお望みか」
直弼の声は低く抑制が効いていたが、その目は鋭い。次郎は一呼吸置いてから、直弼の表情を観察しつつ、慎重に言葉を選んで話し始める。
「掃部頭様、某の望みは難し事に非ず。勅を誠実に行っていただくこと、そして今後、某を襲うような事がないように、厳にお願い申し上げる」
「なに? 襲うじゃと? 勅は粛々と執り行う。異例のことなれど、此度はいたしかたあるまい。ただ、今後はあまり勅を濫発せぬようお願い申し上げる。それよりも、襲うとはなんだ! まるでわしが命じたかのような言い方ではないか」
次郎は落ち着いて答える。
「然に候、掃部頭様はじかに関わっておらずとも、井伊家中、彦根家中が関わっておりまする」
「馬鹿な! 然様な事、あろうはずもない! 確かにお主の事は苦々しく思うておる。然れど襲うなど、あり得ぬわ!」
冷静だった直弼が、襲撃の首謀者だと言われて激しく怒りをあらわにする。
「誠にご存じない? されば、こちら。証言を紙にまとめた物でござるが、一人ではなく何人もの口から、御家中の家老、長野主膳殿の名前があがっておりまする」
「な、なんだと?」
直弼は引きつったような顔をした。
「然様な証拠が世に出れば、江戸と京都での事件の裏に、掃部頭様の意があったと取り沙汰されても、否と言いようがございますまい? ご公儀の威信も地に落ちまするぞ」
直弼の顔に一瞬、動揺が走った。しかしすぐに平静を取り戻し、冷ややかな声で言う。
「脅迫というわけか」
「然に候わず。ただ、事の重しを心得ていただきたいのです」
次郎は丁重に答えた。
「某が望むのは、これらの事件の張本(ちょうぼん・首謀者)を罰し、今後斯様な事のないよう約していただきたいのです」
加えて、と次郎は続ける。
「此度の不時登城をなされた方々も含め、先の先の老中首座であった阿部様の御政道よろしく、万機を公論にて決していただきたいのです。すでに公方様はお決まりになり、攘夷は難し開国止むなしの今、小なる異を捨て大なる同を求めるべく、御公儀の政を執り行っていただきたく存じます」
長い沈黙が流れた。直弼は深く考え込んでいるようだ。
「あい分かった、善処いたそう」
「有り難く存じます」
次郎は退座し、控えの間で休憩していた岩倉具視とともに下城したが、もとよりすんなり行くとは考えてもいなかった。
■産物方
「北海道……いや、蝦夷地のパルプの生産はどうなってる?」
「順調です。このままなら製紙工場とのラインで紙が安定して生産できます」
「そう? 良かった。引き続き報告をお願いね! 予算や諸々、困った事があったらすぐにいってね」
「はい!」
お里は松前藩と共同運営する北海道のパルプ工場と製紙工場の運営にも余念がない。
■江戸城御用部屋
「ふん、勅許は止むなしとしよう。万機公論など……善処はするといったが、あくまで善処だ。それよりも主膳を問い詰めねばなるまい。如何いたすか、外記(犬塚正陽・家老)の祖父様に相談せねばなるまいな」
次回 第230話 (仮)『長野主膳とハリスとの交渉』
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