第257話 『戦後処理その2:前言撤回』

 文久元年四月七日(1861/5/16) 対馬

「では杉村殿……いや、佐須伊織殿とお呼びしたほうがよろしいかな」

「ご随意に」

「では伊織殿、ロシアに船の補修と補給のための物資は与えたが、必要以上の上陸や測量などは許していないと?」

「無論にござる。彼奴きゃつらときたら、こちらが許す前に勝手に上陸するかと思いきや、建物は建てるは勝手に歩き回るわで、まさに放題(やりたい放題)でござった」

 オレは対馬藩家老の杉村改め佐須伊織に、詳しい状況を聞いた。

 この佐須伊織は、朝鮮との貿易が振るわなくなり財政難となった宗家の移封を井伊直弼と協議していたが、桜田門外の変で直弼が死亡した後、対馬に戻ってきていたのだ。

「では、この条約に反する点が多々あるとお思いか?」

 条約を記した書面を伊織に見せると、明らかにそうだと言う。

「然様にござるか……(おのれ、やっぱり日ソ不可侵条約破棄と同じだな。まさに)」




「申し上げます! 敵兵舎に突入、人質を確保の上、残りを捕虜としましてございます」

「おおそうか! 良くやった!」

 上陸した部隊に捕虜の奪還を命じていたが、上手くいったようだ。

「伊織殿! 二名は無事ですぞ!」

「これは有り難い! 然れど安五郎(警備兵・松村安五郎)は……」

「無念にございます。しかと弔い、ロシアには相応の罰と償いをさせましょう」




「申し上げます! 敵兵すべての収容が終わりましてございます」

「あい分かった。では本艦隊は博多をへて大村へ向かい、その後江戸へ向かう」

「はっ」

 オレは対馬での4日間の滞在中に、現地での調査と被害確認、宗家との情報の共有に敵兵の収容など、必要な業務をこなして出港した。

 ・飛龍と昇龍は対馬で警備業務。
 ・輝鷹・天鳳てんほう・烈鳳・祥雲・至善の5隻は箱館へ向かい北方警備。(後日、本艦隊と合流)
 ・残りの清鷹・瑞鳳・祥鳳・徳行・蒼龍そうりゅうは江戸へ。




 ■四月十二日(1861/5/21) 箱館

 発 御大老 宛 外国奉行並箱館奉行

 四月三日付 我ガ国民射殺サレリ 露国軍艦撃沈セリ トノ 報セアリ




「!」

 村垣範正は箱館奉行の竹内保徳とともに送られてきた電信文をみて、愕然がくぜんとした。

「村垣殿、これは……」

「ええ、竹内殿。公儀より対馬の件に関しては大村家中が任されていると聞き及んでおります。彼の家中の家老である太田和殿は先見の明あり、決して軽挙妄動をなされるお方ではないと、前回の条約調印の際に同席した川路殿から聞き及んでおりますが」

 範正は次郎の評判を聞いているので、撃沈してしまうほど、ロシアはされて当然の事をやったのだと感じたのだ。

「いずれにしても由々しき事態にて、ロシア領事館にて真偽のほどを確かめるとして、公儀にはしかるべき者を遣わしていただこう」

「あい分かった」




「ゴシケーヴィチ領事、このような事態になり、残念です」

 範正と保徳は、幕府よりの電信文をゴシケーヴィチに見せた。

 残念だという意思表示をしたのだが、ゴシケーヴィチは電信文の内容を一読すると、顔色を変えた。
 
「これは……大変遺憾な事態です。私にも詳細は分かりませんが、すぐにペテルブルグに連絡を取り、真相を確認いたします」

「真相もなにも、帰国の軍艦が対馬へ来航し、条約違反を繰り返していた事実は先日からの会談でも明らかでしょう? 借り受ける件といい、貴国は海軍はまるで別の組織、別の国なのですか? だとすればペテルブルグへの連絡も意味を成さないし、第一、何か月かかるのでしょうか」

 保徳は理路整然と正論を述べた。ゴシケーヴィチは言葉に詰まりつつも、外交官としての冷静さを取り戻して答える。

「竹内殿、ご指摘の点はよく理解しております。確かに、ペテルブルグとの連絡には相当の時間を要します。しかし、このような重大事に関しては、本国政府の意向を確認せずに判断を下すわけにはまいりません」

 範正が静かに口を開く。

「領事殿、回りくどい話はもう止めにしましょう。のらりくらりと話がまったく進まぬ。この電信の日付、ご覧になってください。四月三日……つまり西暦で5月12日に我が国の軍艦が貴国の軍艦を沈めているのであるが、領事、先日の四月七日、西暦5月16日よりも前だ。これは何を意味しているのでしょうか」




 ■遡って四月七日

「はい奉行。その通りです。仮にこの時点で武力衝突が起きていたとしても、それは我が国の行動に起因するものであり、日本側には一切の責任がないことを認めます。条約違反を犯したのは我が国であり、そのような事態になっていれば、すべての責任を負う覚悟です」




 ■現在

 範正は無表情で言い放つ。

「ゴシケーヴィチ領事、あなたは外交官として、日露領土主権条約に基づき、こう回答しているのですぞ」

 しばらくの沈黙が続いた。2人にとって長く、はてしなく長い沈黙のようであった。




「……ふう。さて、……どうしましょうか。全く記憶にございませんが」

「なにい!」

「ふざけた事を申すな!」

 ゴシケーヴィチの言葉に、いや、その開き直った態度に、通訳の言葉を待たずして2人は相手の意図を感じ取ったのだ。外交の場という事を忘れ、思わず怒鳴ってしまった。

 範正と保徳の怒りに満ちた反応を見てゴシケーヴィチは少しだけ驚いたが、すぐに冷静さを取り戻して深呼吸をした後、静かに口を開いた。

「……まあまあ落ち着いてください、お二方。私の言葉が誤解を招いたようで申し訳ありません。私が言いたかったのは、そのような重要な発言をした記憶がないということです。外交官として、そのような重大な約束をした覚えはありません」

「馬鹿な事を!」

 範正は冷たい目でゴシケーヴィチを見据えた。

「領事、あなたの記憶の有無は問題ではありません。我々の会談の記録が残っています。外交官としてのあなたの言葉は、ロシア帝国の公式見解として受け取られるのです」

 保徳も厳しい口調で続ける。

「そうです。あなたの発言は、単なる個人的な見解ではなく、ロシア帝国を代表しての発言です。それを今になって覚えがないなどと言うのは、外交官として、また一国の代表として無責任極まりません」

 ゴシケーヴィチは意に介さない。

「……ふう。困りましたね。書記官、そのような事実はあるかね?」

 傍らにいた書記官に事実確認をするが、驚きの答えが返ってきた。

「ありません。そのような記録はありません」

「な……」

 範正と保徳はあきれてしまった。怒りと驚きとあきれと、およそ言い表せない感情が2人の頭をグルグル回る。

「いま、いま何と仰せか?」

 範正は深呼吸を2回して尋ねた。

「ですから、私はそのような発言をした覚えもないし、記録もないと言ったのです」

「領事、いい加減に!」

 範正が声を荒らげようとしたとき、保徳が制止した。

「村垣殿、ここは、ここは抑えてくだされ!」

(相手は知らぬ存ぜぬ記憶にないと、しらを切っているのです。ここで談判しても、もはやらちがあきませぬ。公儀からの下知を待って、改めるといたしましょう)




「ぐ……。では領事、後日改めて伺いますゆえ、その時に今一度お考えをお聞かせ願いたい」




 ■文久元年四月二十一日(1861/5/30) 箱館奉行所

「何? 然様さような事があったのでござるか?」

 交渉の全権を任されたのは、前回の条約調印に全権として参加した川路聖謨である。

子細しさいを教えていただけますか?」

 次郎は範正と保徳に確認した。




「うべなるかな(なるほど)。では川路様、村垣様、竹内様、子細を打ち合わせの上、領事館に向かうといたしましょう」

 次郎は例の如くオブザーバーであったが、実質は全権である。




 次回 第258話 (仮)『戦後処理その3:日露戦争?』

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