文久元年九月十六日(1861/10/19) ロシア サンクト・ペテルブルク 王宮
「海軍大臣よ、余は正直乗り気ではなかったが、日本の対馬を租借する件は、上手く進んでおろうな」
ロシア帝国皇帝アレクサンドル2世は、弟であり対馬租借の発案者である海軍大臣コンスタンチン・ニコラエヴィチに質問した。ロシア帝国の国家評議会での一幕である。
評議会といっても上院・下院や衆議院・参議院というようなものではなく、皇帝の諮問機関のようなものであった。外務大臣のアレクサンドル・ゴルチャコフも同席している。
コンスタンチンは、自信に満ちた表情で答える。
「はい、計画通り進めております。艦長ビリレフは浅茅湾に停泊を続け、徐々に基地としての体裁を整えつつあります」
外務大臣のゴルチャコフは、その言葉を聞きながら静かに目を閉じた。当初からこの計画に反対していたのだが、皇帝の弟であるコンスタンチンには、正面から異を唱えることができなかったのだ。
「外交問題には発展していないのだろうな?」
アレクサンドルが懸念を示す。
「ご心配なく。我々は外交の形式を一切取っておりません。あくまで海軍と現地の領主との私的契約という形で進めております」
「なに! これは……なんという事だ! 恐れていた事が!」
箱館からの緊急の文書を開いて読んだゴルチャコフは天を仰ぎ、しばらく言葉を発する事ができなかった。アレクサンドル2世もコンスタンチンもゴルチャコフのただならぬ様子に驚く。
「どうしたのだ、外務大臣よ」
「陛下……箱館領事ゴシケーヴィチより緊急の報告が届きました。我が国の軍艦ポサドニック号が……日本海軍により撃沈されたとの事です」
ゴルチャコフは震える手で文書を握りしめながら、ようやく口を開いた。
「何だと!」
アレクサンドルは立ち上がり、コンスタンチンも顔を強張らせた。
「さらに報告によりますと、この一件は明らかに我が方に非があるとの事です。領事ゴシケーヴィチは事前に、対馬での測量や上陸など、度重なる厳重な警告を受けていたようです。その際、もし武力衝突が起きた場合の責任は我が国にあると認めていたとの……」
「待て」
コンスタンチンが遮る。
「そもそも外交ルートを使わず、海軍と現地領主の私的契約という形を取るはずだった。なぜ領事が関与している」
「それが問題だったのです」
ゴルチャコフは静かに、しかし強い口調で続けた。
「日本は単なる領主の寄せ集めではありません。我々と通商条約を結んでいる国家なのです。その領土に対し、このような形で……」
「詳しく説明せよ」
アレクサンドルは命じた。
ゴルチャコフは文書に目を落とし、説明を始める。
「ポサドニック号は3月1日に、修理を口実に対馬の浅茅湾に入港しました。しかし実際の行動は、測量や上陸、建物の建設など、明らかに条約違反の行為でした。日本側は再三にわたって警告を行い、箱館の領事館にも正式な抗議を行っていたとの事です」
「それだけか?」
「いいえ。さらに悪いことに、我が艦隊は土地の借用まで要求したそうです。これは完全な主権侵害行為です。そして最後には……現地の警備兵を射殺する事態にまで発展しました」
もともとは対馬の港の租借が目的だったのだ。ここであえて言われなくても、その事実は誰もが知っている。
評議会場に重い沈黙が下りる。
「では、撃沈した艦隊とは?」
アレクサンドルはさらに尋ねた。
「大村領海軍……いえ、日本海軍の艦隊との事です。1,700トン級から400トン級まで、13隻もの近代艦で構成された艦隊でした。最新鋭のクルップ砲とペクサン砲を装備しているとの事です」
コンスタンチンが顔色を変えて口を開く。
「そんな……日本にそのような艦隊があるはずがない。情報が間違っているのでは?」
いいえ、とゴルチャコフは強く首を振った。
「この情報は確かです。しかも驚くべきことに、撃沈後の事後処理も極めて手際よく行われたようです。生存者の救助、捕虜の保護、そして……」
「そして?」
「箱館での事後交渉です。我が領事館で行われた会談の様子が、何やら奇妙な機械で記録されていたとの事です。日本側は、我々の違法行為の一部始終を、音声付きで記録していたようです」
アレクサンドルは深いため息をつき、弟のコンスタンチンを見据えた。
「結局、お前の読みは完全に外れたな。日本を未開の国と侮っていたのが、最大の誤りだったようだ」
「申し訳ございません」
コンスタンチンは頭を垂れた。
「さらに報告があります」
ゴルチャコフが続ける。
「箱館での会談で、日本側は報復としてウラジオストクやペトロパブロフスク、ニコラエフスクへの同様の行動を示唆したとの事です。彼らは我々と同じ論理で、自国の行動を正当化できると……」
「まさか! それは明らかな脅迫ではないか」
「我々が対馬で行った行為と、どこが違うというのです?」
コンスタンチンの反論にゴルチャコフは静かに問い返し、アレクサンドルもまた、深いため息をついてゆっくりと口を開いた。
「外務大臣、この事態の収拾案はあるか?」
「はい。まず、事実関係を認め、正式に謝罪する必要があります。そして……」
「待ってください」
コンスタンチンが遮る。
「それでは我が国の威信が……。それに仮に我が海軍の行動に非があったとしましょう。そこで不幸にも命が失われた。しかし、われらもまた報復を受け、その様子だとかなりの死傷者が出たのであろう。これはどうするのですか?」
「我が方の非は明白だ」
アレクサンドルは厳しい口調で弟を制した。
「死傷者についてだが、箱館領事の報告では日本側は極めて手際の良い救助活動を行い、生存者の保護も適切に行われたとの事だ。さらには病院での治療も施されているという。我が方の行動を考えれば、これは驚くべき人道的対応ではないか」
「しかし陛下……」
「聞け、コンスタンチン。お前は『未開の国』と侮って、勝手な行動を取らせた。しかし現実はどうだ? 13隻もの近代艦隊を保有し、最新の記録機器まで持っている。そして何より、国際法に則った正当な手続きを踏んでいる」
ゴルチャコフが補足する。
「その通りです。日本側は我々の違法行為に対し、まず外交ルートでの解決を試みました。そして事態が切迫した後も、撃沈後の対応は極めて冷静かつ人道的でした。これは明らかに『文明国』としての対応です」
「では、具体的な対応策は?」
アレクサンドルが問う。
「まず、公式な謝罪と賠償。そして……日露領土主権条約の厳格な遵守を改めて確約する必要があります。特に北方での我が国の活動について、日本側は極めて警戒的です」
ゴルチャコフの言葉にアレクサンドルはうなずき、弟を見つめた。
「コンスタンチン、お前の構想は失敗だ。我が国の威信どころか、むしろ日本を『未開の国』と見誤った我々の傲慢さが露呈してしまった。今必要なのは、この失態を最小限に抑え、日本との関係を立て直すことだ」
「しかし!」
「愚か者! 敵は日本だけではないのだぞ! クリミア戦争で負け、欧州での南下政策は頓挫した。ここで意地をはれば、必ずやイギリスやフランスが介入してくるぞ! おそらく既に手を回しているかもしれん。この上敵を増やしてどうするのだ! ?」
アレクサンドルは厳しい目でコンスタンチンを睨み、続ける。
「よもや日本と戦争すると言うのではあるまいな? 負けはせずとも、極東の兵力のみで日本の艦隊を屠る事ができるのか? 余の船が沈められたのだ。悔しくない訳がなかろう! しかし、しかしだ! イギリスやフランスが日本の味方をしたらどうなる? わが帝国は孤立無援となるのだぞ!」
コンスタンチンはようやく観念したように深くため息をつき、『承知いたしました』と答えた。
「敵が日本だけならまだ対処はできようが、介入されれば状況が悪化するだけだ。……謝罪の件は致し方あるまい。口惜しいが、ここで突っぱねても干渉を招く。しかし、賠償をするにしてもしないにしても、極力わが帝国の威信を損ねることのないよう、頼むぞ、ゴルチャコフ」
「承知いたしました」
次回 第266話 (仮)『イギリス』
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