天正十九年一月二十八日(1590/3/4) <フレデリック・ヘンドリック>
さて、去年からジャガイモの栽培を行っているが、初めてにしては上出来と言っていい収穫だった。現代のジャガイモとは少し違うところもあるけれど、主食になり得ることを確認できたのは大成果だ。
種芋として残し、春先(これから)に栽培して秋に収穫することになる。まずはオランダの17州全域で流通させたい。飢饉(ききん)対策にもなるし、小麦や他の穀物の需要が減れば、価格も下がるはずだ。
ストーブの研究はポルトガルから輸入したものを工房で研究している。レが見たことのある現代のストーブのヒントをときどき教えに行って、あとは職人まかせだ。
機械化して大量生産するには産業革命が必要だけど、まだ200年は先の話だ。
ただ、気付いたことは兄貴に言ってライデン大学の学者に話を聞きに行けるようにしてもらった。兄貴はあまりのオレの変わりように驚いていたが、総督の一門に優秀な人間がいれば安心と、笑いながら許してくれている。
「兄上、いまヨーロッパはどういう情勢なの?」
「おお、フレデリック。ヤンにオレに聞いてこいと言われたのか?」
兄貴(マウリッツ)は満面の笑顔でオレを迎えてくれた。雪は降っていないがまだ気温は一桁で、ようやく訪れようとしている春だったが、まだ先だと言わんばかりに冷えている。
「いえ、兄上。自分で判断しながら行動していく為にも、情勢は把握しておきたいのです」
6歳児、小学校1年生がこんな事を言えば、今の日本では完全に神童扱いだ。いや、そんな事はないか? どうなんだろう。
兄貴は少しだけ驚いた表情を見せた後、優しい笑みを浮かべた。
「そうか。何にしても勉強しておくのは良い事だ」
暖炉の傍に置かれた椅子に座りながら、兄貴はヨーロッパ情勢について語り始めた。
「まず、我らの最大の敵であるスペインのフェリペ2世だが、無敵艦隊の敗北で大きな打撃を受けている。しかし、まだまだ強大な力を持っていることには変わりはない。だが父上の代から攻勢を強め、そしてナバラ王がアンリ4世として基盤を築いた。現状、フランスが我がネーデルランドの防波堤の役割を果たしている。ゆえにフランスとは強固な結びつきが必要なのだ」
「フランスは……アンリ4世は本当に信用できるのでしょうか?」
オレは現代の知識から、アンリ4世がフランスの国民を納得させて即位するために、カトリックに改宗することを知っている。しかし、今世ではすでにカトリックに改宗し、その上で即位していたのだ。
ナントの勅令を8年早く発布しているが、国内での宗教対立を防ぐためなので、いつ破棄されるかもわからない。もしくは狂信的なカトリック教徒に暗殺される恐れもある。
実際に前世では暗殺されているのだ。
そういう意味では身辺警護を厳重にして、身の回りの人間の調査を行った方がいいかもしれない。死なれては困る。フランスとスペインが同盟などすれば、大打撃だ。
「ほう、その疑問は鋭いな」
兄貴は感心したようにうなずいた。
「……それは、ナントの勅令を言っているのか? 確かにアンリ4世はもともとユグノー派の指導者だったが、即位のために改宗したのだ。そして今、カトリックとプロテスタントの両方に配慮しなければならない立場にある。これは北部と南部、わがネーデルランドにも言える事だ。しかし、だからこそスペインの力を抑えることに利害が一致するのだ」
暖炉の火が揺らめき、その光が兄貴の顔に映る。オレは黙って続きを促した。
「フレデリック、お前が最近始めた農作物の研究も、実はとても重要なことなのだ。民衆の暮らしが安定すれば、それはすなわち強兵となる。我らの独立も盤石となるという事だ」
「はい、兄上。その通りです」
そう答えながら、オレは密かに微笑んだ。6歳とは思えない会話をしている自分に、少し可笑しさを感じながらも、この時代にできることを着実に進めていこうと決意を新たにした。
「そうだフレデリック。明日は軍事調練を閲兵する予定だが、見てみるか?」
「え? いいの?」
「うむ、あと10年もすれば軍を率いねばならぬかもしれんからな。それにオレに何かあった時はお前がホラントの総督となるのだ」
「え?」
兄貴の言葉は重かったが、冷静に考えると、そうなのだ。
■翌日 練兵場
寒風が吹き付ける演習場で、フレデリックはマウリッツと一緒に軍事調練を見学している。
「見るがいい、フレデリック。これが我が軍の新しい訓練方法だ」
マウリッツは誇らしげに語る。
眼下では数百人の兵士たちが整然と並び、号令に合わせて一糸乱れぬ動きを見せていた。
「1、2、3、4!」
号令とともに、兵士たちは銃を構える。その動作は細かく分解され、まるで歯車のように正確に連動している。フレデリックは現代の自衛隊の訓練を思い出していた。
「驚いたか? 以前の軍隊とは全く異なる規律だ。従兄のヤン(ヨハン7世)と共に確立した新しい訓練方法でな」
フレデリックには以前の軍隊がどういう物なのかはわからない。
しかしマウリッツの言葉から想像するに、以前は傭兵の集まりで規律や戦術もなく、ただその時の状況でバラバラに動いていたのだろう。
統率がとれている、というのはこういう事をいうのだろうか。
「銃の扱いを40以上の動作に分けて、それぞれを完璧に習得させる。そうすることで、戦場での素早い対応が可能になるのだ」
演習場の一角では、シモン・ステヴィンが若い将校たちに何かを教えている。数学者を登用するという発想も、マウリッツらしい。
「あれは新しい計算方法を教えているのですか?」
「よく気づいたな。砲撃の角度や火薬の量、それに陣形の展開まで、すべてを数学的に計算している」
その時、号令に合わせてマスケット銃を持つ銃兵たちが号令1つで隊形を変えていった。
2人の父親であるオラニエ公ウィレムがポルトガルから取り入れたという新しい銃は、ここにはあるはずのないフリントロック式の銃である。
史実ならば17世紀初頭に登場するフリントロック式であるが、純正が開発し、ポルトガルを経由してウィレムが実戦で投入した。17年も前のことである。
この戦術も(今世では)ウィレムが考案し、マウリッツが確立させた。
「見事だろう?」
マウリッツが誇らしげに言う。
「皆が息を合わせて動けば、こうして速やかに陣形を変えられる」
フレデリックは黙ってうなずいた。
「ところで、フレデリック。お前はこういった軍事にも興味があるのか?」
「はい。民を守るためには、強い軍隊も必要です」
「そうだな。だが、強さだけではない。規律と教養を備えた軍隊こそが、真の力となる」
演習場では、今度は騎兵隊が疾走を始めていた。砲兵隊も配置について、3つの兵科が見事に連携している。
「兄上、この訓練法を書物にまとめるのですか?」
「ああ」
マウリッツはうなずいた。
「ライデン大学の学者たちの協力も得ている」
「でも……大切な秘密じゃないんですか?」
マウリッツは微笑んで、フレデリックの頭に手を置いた。
「よく気づいたな。だが、軍の強さは個々の秘密ではなく、訓練の積み重ねにある。これを理論として確立し、きちんと記録に残すことが重要なのだ」
「なるほど。兄上、さすがです」
この訓練マニュアルはヨーロッパの軍事史を変えることになるのだが、6歳のフレデリックには縁遠い事であった。
次回 第759話 (仮)『とりあえず命の危険はないようなので、住環境を整えよう』
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