第760話 『乱、その後』

 天正十九年四月八日(1590/5/11) へトゥアラ

「申し上げます! 明国、寧夏鎮ねいかちんの副総兵、哱拝ぼはい殿の使者がお越しになっております」

「なに? 明の? ……よし、通すがよい」

 建州女真の首都であるへトゥアラの政庁で政務をとっていたヌルハチに、思いも寄らぬ来客があった。

 この時期のヌルハチは、海西女真に対して既に大きな成果を収めている。古勒山ころくざん(グレ)の戦いでは、イェへ部のナリムブルが率いた9部連合軍3万の大軍を、奇襲作戦で包囲殲滅せんめつしたのである。

 この勝利により、女真の諸部族の多くがヌルハチに従うようになり、明からは竜虎将軍の称号も得た。明は称号を与えてヌルハチをおだて、女真の権力争いの結果によって強大な勢力が生まれるのを阻止しようとしたのだ。

 もっともヌルハチは歯牙にもかけず、一応もらった、という程度である。

 そんな中での寧夏からの使者の来訪は、興味深い展開だった。

 ひざまずいた使者が差し出した書簡にヌルハチは目を通したが、その内容は明確だった。寧夏の独立宣言と、モンゴル・満州国(建州女真)との三国同盟の提案である。

 ヌルハチは満州王、と書かれてあった。

「ほう……」

 ヌルハチはほくそ笑む。

 スクスフ河北岸の古勒山(グレ)での戦いで示した軍事力は、確かに大きな影響を与えていた。

 海西女真の諸部族は次々と帰順し、明朝でさえも自身の存在を無視できなくなっている。そこに持ち込まれた寧夏からの独立と同盟の提案。これは新たな展開への契機となるかもしれない。

 ヌルハチは沿海州を手放し、純正に事実上の割譲をした後は友好を図り、技術支援や貿易等を盛んに行って国力の増強を図っていた。その成果が2回にわたる海西女真との戦いの勝利であろうか。

「使者よ、話を聞こうか。哱拝殿は、どのような考えでこの提案を持ってきた?」

 ヌルハチは、李成梁失脚後の明の北方政策の変化を感じ取っていた。この機を捉えた哱拝の意図を、じっくりと探ってみる価値はあるだろう。

 もし哱拝がヌルハチに対して同盟なり軍事支援なりの申し出をしてくるなら、願ったり叶ったりである。

 明は将軍位をヌルハチに与えはしたが、今後ヌルハチが海西女真のヘダ部、ホイファ部を攻略して勢力を増していけば、明の警戒心は高まり、武力衝突に発展することは目に見えていた。

「はい。哱拝様はこう仰せでした。今、明は北方に大きな不安を抱えているのだと」

 使者の声は落ち着いていた。

「満州王たるヌルハチ様が古勒山の戦いで示された軍事力は、明にとって大きな脅威となっております。しかし今、明はそれに対処する余裕すらありません」

 使者は一旦言葉を切り、ヌルハチの反応をうかがった。

「哱拝様は明の圧政に苦しむ民のために立ち上がりました。モンゴルとの同盟も既に内々に話は進んでおり、満州王、ヌルハチ様との同盟を考えておられます」

 ヌルハチは黙って聞いていた。
 
 明の北方政策の混乱は、確かにチャンスではある。李成梁の失脚は、北方防衛の要を失ったも同然だ。そこに寧夏が反乱を起こし独立を図っている。
 
 それにモンゴルが加担するとなれば……。

「哱拝殿は、我らの力を買っておられるようだな」

「はい。古勒山の戦いは、全てを物語っております。わずか百騎で3万の軍を打ち破られた戦果は、我が主も深く心に刻んでおります」

 ヌルハチは静かにうなずいた。

「伝えよ。我らも前向きに検討しよう。ただし……」

 一瞬言葉を切る。

「三国同盟となれば、それぞれの役割が必要となる。その詳細な協議が必要だな」

 使者の顔が輝いた。これは実質的な同意である。ヌルハチは既に次の展開を見据えていた。




 ■寧夏鎮

「ただ今、河西から玉泉までの47諸塁からの使者が到着しました。全て我らの支配下に入ったとの報告です」

 側近の土文秀の報告に、哱拝は満足げにうなずいた。劉東暘りゅうとうようとの連携は順調に進んでいる。明から派遣された総兵の張維忠が自害した後、明軍の動きは鈍っていた。

「魏学曽が固原鎮こげんちんに駐屯したようですな」

「奴らは寧夏の民心を見誤っている。巡の兵糧着服は、我らの独立の大義名分となった」

 哱拝は地図を広げた。既に河西から玉泉までの要衝は押さえ、霊州の呉世顕も味方につけた。

「我が軍の兵力は?」

「主力は1万5千、モンゴルの援軍が約束の3千。各地の諸塁からの兵を合わせれば総勢2万を超えます」

 土文秀が彼我の兵力を報告する。

「明軍の動きは?」

「魏学曽の軍が4万。これに苗兵を加えた大軍との戦いになりますが、ヌルハチの援軍も加われば……」

「うむ、互角に戦えるであろう。それに明は、かつての明ではない」

 まだ始まったばかりだが、着実に歯車は回り始めていた。




 ■紫禁城

「申し上げます! 楊応龍が余慶・草塘そうとうにて略奪を行い、興隆・偏鎮・都勻といんなどの衛所を攻め、五司の内の黄平・重安の一族を誅殺ちゅうさつしたとの事でございます!」

「播州の楊応龍が……」

 重臣たちの表情が険しくなる。播州土司の楊応龍は、かつて妾の田氏に唆されて正妻の張氏とその母親を殺害したことで重慶に召還されていた。

 斬刑を言い渡されたものの、銀2万両での贖罪しょくざいを認められ、さらには5千の兵を対女真のために派遣すると約束させて釈放されたのである。

 だが播州に帰った後も横暴は収まらず、今や五司七姓(黄平・草塘・白泥・余慶・重安の五司と田・張・袁・盧・譚・羅・呉の七姓)への報復を露骨に始めている。

「そして今、寧夏では哱拝が……魏学曽の4万の軍を差し向けているとはいえ、モンゴルとの同盟も噂されております」

 2つの辺境での同時の反乱。しかも、播州の楊応龍の軍勢は14~5万とも言われている。

「両方の対応に、我らの兵は足りるのか?」




 声を発したのは万暦帝ではない。

 このような国家の緊急事態でさえ、後宮に入り浸って政務を省みることはなかったのである。




 次回 第761話 (仮)『北方三国同盟と明の滅亡への序曲』

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