第761話 『北方三国同盟と明の滅亡への序曲』

 天正十九年五月十一日(1590/6/12) 紫禁城

「兵はいる。だが動かすことは難しいだろう」

 内閣大学士の申時行は誰に告げるわけでもなく、静かに、淡々と述べた。

「100万の兵を抱え、各地の衛所にも精鋭がいる。しかし……」

軍餉ぐんしょう(兵糧)が足りませぬ」

 戸部尚書の王国光が絶望的な表情で告げた。

「寧夏への軍の派遣だけでも莫大ばくだいな費用がかかる。これに播州も加われば……」

 重臣たちの間で不穏な空気が漂う。李成梁の失脚後、北方の統制は乱れ、軍紀は緩み、補給線は混乱していた。衛所の兵も、その多くが実戦経験のない世襲の軍戸と化していた。

「魏学曽の4万も、実際に戦えるのは半分もないのではないか」

 兵部尚書の石星が声を荒らげた。

「衛所の兵は形骸化し、将兵は腐敗にまみれている。これでは……」

 誰もが言葉を濁す。莫大な軍事費を投じながら、その実態は空洞化していた。数だけはあっても、実戦力として機能しない軍隊。これこそが、明の抱える最大の問題だった。




 ■へトゥアラ

「明の軍は、もはや李成梁時代の強さはない」

 ヌルハチは側近たちを前に静かに語る。

「100万の兵を擁しながら、その実態は空虚だ。辺境の将兵は軍餉を着服し、衛所の兵は農民と化している」

「しかし、数の上では……」

「数など意味をなさん。数は確かに戦の勝敗を決める重要な要素よ。しかしそれだけではないことを、古勒山ころくざんの戦いで証明したではないか」

 ヌルハチの眼光が鋭く光る。

「重要なのは兵の質と、それを率いる将の器だ。今の明には、その両方が決定的に欠けている」




 ■寧夏鎮

「魏学曽の軍も、よくよく調べてみると、思ったほどの脅威ではないように思えますな」

 土文秀の報告に、哱拝ぼはいは冷笑を浮かべる。

「油断は禁物じゃ。しかし明の将兵が腐敗しきっているのも事実。軍餉は着服され、兵は訓練もままならず、将は保身に走る。兵数に劣る我らの勝機はそこよ。それに西域に至る河西回廊は我らが押さえておる。交易の益も我らのものとし、明に独立を認めさせようではないか。よいか、和平などありえぬ。今さらヤツらなど信用できぬからな。独立こそ我らが生きる道ぞ」

「はっ!」

 土文秀は深くうなずいた。哱拝の言葉には重みがあった。明朝による圧政と収奪。その苦しみを知る者としては、もはや和平など考えられなかったのだ。




 ■紫禁城

「陛下はまたお引き籠もりか」

 申時行の言葉には疲れがにじんでいた。万暦帝への上奏文は積み重なるばかり。寧夏の危機も、播州の反乱も、その目に触れることはない。

「後宮からは新たな織物の催促が参っております」

 王国光がため息を漏らす。国庫は底をつき、辺境の軍餉にも事欠くありさま。それでも贅沢品への要求は止まない。

「李成梁殿を復職させれば……」

 石星の言葉に、誰もが暗い表情を浮かべる。北方最強の将を失ったことは、今になって重くのしかかっていた。




 ■へトゥアラ
 
「明の混乱は、我らにとって千載一遇の好機となるだろう」

 ヌルハチは側近たちを前に静かに語る。
 
「だが、性急になってはならん。今は寧夏との同盟を確実なものとし、海西女真の統一を着実に進めることだ」

「モンゴルとの関係は?」

「奴らもまた、明を倒す機会をうかがっているはずだ。だが、互いを利用し合う関係に過ぎんことを忘れるな」

 ヌルハチの眼光が鋭く光る。

「我らの目的は、全ての女真を統一し、やがては中原を手に入れることだ。寧夏との同盟も、モンゴルとの協力も、その目的のための踏み石に過ぎない。援軍を求めてくれば送ってやろうぞ。哱拝とモンゴルが明に対するけん制となれば、われらは海西女真の併合に力を注げよう。早いところ決着をつけてほしいものだ」




 ■播州

 楊応龍は手紙を読み終えると、静かに炎の中に投げ入れた。

「寧夏からの使者とやら、随分と遠くから来られたものよ」

 側近の目が光る。

「殿、哱拝との同盟を?」

「まだその時ではない。だが……明が寧夏に兵を集中させれば、我らの好機となろう。ふふふ、この機に独立というのも良いかもしれんな。皇帝の椅子というのも悪くなかろう」




 ■台湾総督府

「関白殿下! 申しあげます!」

 台湾総督の若林中務少輔なかつかさのしょう鎮興が息を切らせて総督府の純正の居室に入ってきた。

 関白太政大臣の小佐々平九郎純正は顔を上げた。

「おお鎮興、如何いかがした? そのように慌てて」

「明より報せが入りました! 寧夏の哱拝が明に対して反旗を翻し、満州国のヌルハチ、そしてモンゴルとの間に三国同盟の動きがございます!」

「ほう……思いのほか早かったの」

 純正は興味深げに目を細めた。

 明とは台湾の領有をめぐって争ってはいたが、書面でも台湾を化外の民の地として与り知らぬとしていたので、表だっての衝突は起きていなかった。

 張居正の時代に使者が訪れたものの、書面を盾に追い払っていたのだ。

 その後、音信不通である。

「殿下、早かったとは?」

 鎮興は純正の表情をうかがうように聞いた。

「大陸の混乱じゃ。李成梁の失脚から、まだ一年もたっておらぬ。その間に寧夏の独立、ヌルハチとモンゴルの動き、さらには播州の反乱……八年前に張居正が死んでから万暦帝の親政が始まったが、親政どころではない。堕落だ。遅かれ早かれこうなるとは思っておったがな」

「では明国はこれから下り坂になると仰せですか?」

 鎮興は確認する。

「うむ、北方で新たな同盟が生まれ、播州では反乱、そして皇帝は遊興にふけっている。まさに大明帝国の終わりの始まりといったところか」

 純正は冷静に情勢を分析していった。

「張居正の時代、明は強くなった。厳しい統制で官僚の腐敗を抑え、国庫も潤っておった。その後も李成梁は北方で手腕を振るい、辺境の安定を保っていた」

「しかし今は……」

「そうだ。万暦帝は政務を放棄し、重臣たちは己の保身に走る。申時行でさえ、形だけの存在となり果てた。張居正の死から八年、万暦帝の堕落は極まり、今や李成梁も失脚。これは帝国の終焉しゅうえんを告げる兆しだ」

 純正は張居正の時代から、いや、それ以前に台湾を領有した時点から長い時間をかけて明への経済的な圧迫を続けてきたのだ。

「北方では新たな同盟が生まれ、播州では反乱、そして皇帝は遊興にふける。まさに予期していた通りの展開よ」

 純正は静かに目を細めた。

「十数年前から見えていた道筋じゃ。明の医者や商人たちがわが国を目指し、各地の人々が肥前国の統治を求めてきた。これは明の衰退が始まる前からの流れよ」

「我らの長年の施策が……」

「うむ。人種や宗教による差別のない世の中、さまざまなる文化を認める統治、そして安定した経済と強大な軍事力。我らはこれを一朝一夕に築き上げたわけではない」

 純正は淡々と語る。これは新しい分析ではなく、長年の観察に基づく確信だった。

「明の混乱は、万暦帝の堕落と我らの路線が正しかったことの証にすぎん。だからこそ、今までの方針を粛々と続けていけばよい」




 中国大陸は統一国家ではなく、春秋戦国時代や五胡十六国時代のように割拠してくれればよいのだ。

 純正はそう考えていた。




 次回 第762話 (仮)『肥前国の省庁・陸海軍再編と大日本国、そして極東情勢』

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