第271話 『坂下門外』

 文久二年一月十五日(1862/2/13)  江戸城

「申し上げます! 御大老様、坂下門外にて襲われましてございます!」

「なに! ? 真か?」

 大老安藤信正襲撃の報はまたたく間に江戸城をかけめぐり、久世広周は信正の安否を問うた。

「幸いにして御大老様はご無事にて、賊は全てうち倒し、取り押さえましてございます!」

「おお! それは重畳ちょうじょう! して、何処いずこの者か?」

「申し訳ありませぬ、それはまだこれからにございます」

「うむ、容赦するでないぞ」

「ははっ」




 実のところ、安藤信正はまったくの無傷であった。

 井伊直弼が仕立てた特製の駕籠かごに倣って自らも同じ物をつくり、特設した要人警護の警備隊が、藩兵を装って警護をしていたのだ。
 
 大老に1個小隊の30名、老中に1個分隊の15名、奉行には半個分隊の7名がついていた。
 
 本来は直訴を装って駕籠を襲い、銃声と同時に襲いかかる予定だったのだが、桜田門外の変以降に厳重となっていた要人警護の上、さらに銃で武装した警護兵に敵うわけがない。

 そのため襲撃を行った水戸藩士はたちまちのうちに捕らえられたのだった。

 この辺のところを考えると、無謀としかいいようがない。

 自分の死と引き換えに意思を世間や幕府に伝え、世の中を変えようと考えていたのだろうか。次郎は後日この事を知るのだが、ため息しか出ないだろう。

 なぜ無駄死にをするのだ? と。




 結局襲撃に加わった水戸藩浪士・平山兵介(細谷忠斎)、小田彦三郎(浅田儀助)、黒沢五郎(吉野政介)、高畑総次郎(相田千之助)、下野の医師・河野顕三(三島三郎)、越後の医師・河本杜太郎(豊原邦之助)の6人は捕らえられて尋問される事になった。

「申せ! その方らのみの行いではなかろう? 誰にそそのかされて犯行に及んだのだ?」

 全員一緒ではなく個別尋問である。犯行前に考えていたのだろうが、口裏を合わせられるのを防ぐためであった。

「誰もおらぬ! 我らのみの考えで事を起こしたのだ!」

 平山兵助は頑なに口を閉ざし、何度聞かれても答えない。それは他の5名も同じ事であった。食事もろくに与えない過酷な尋問は数日間続いたが、ついに1人が口を割った。

「……くそう長州め、ヤツらが裏切りさえしなければ上手く行ったものを……」

「なに! 今なんと言った! ? 長州と申したか!」

 評定所の与力が即座に筆を走らせ、供述を書き留める。

「詳しく話すがよい。毛利家中と如何いかなる関わりがあったのだ?」

 男は一度口を開いた以上、もう隠し通せないと悟ったのか、重い口を開く。

「我らと長州藩の桂小五郎殿、松島剛蔵殿らが、丙辰へいしん丸にて……」

 男の言葉に、隣室で取り調べを受けていた平山兵助が立ち上がって与力を振り払い、壁を叩く。

「黙れ! 何を話すか!」

 与力は直ちに兵助を取り押さえ、別室の与力は証言に集中する。

「続けよ。丙辰丸とは何だ」

 男は他の5人とは別の声も届かない部屋に移されると、水を与えられ、食事も与えられた。数日ぶりの食事をガツガツとかき込み、水筒の水をゴクリと飲んで続ける。

「二年前の万延元年の七月、長州毛利家中と我ら水戸家中との間で盟約を結んだのです。然りながら此度こたびの件は、われらすでに水戸の家中を出た身にて、家中とはまったく関わり合いのない事でございます」

 いわゆる成破の盟約、あるいは水長盟約とも呼ばれるものである。

 その内容は両藩が連携して急速に幕政改革を行うというものであったが、役割としては世の中を撹乱かくらんする(破)のが水戸藩であり、その混乱に乗じて改革を成す(成)のが長州藩という分担であった。

 これは倒幕ではなく、あくまで幕政改革の一環として結ばれたものである。

 しかし、その後長州藩では長井雅楽が唱える航海遠略策が藩論となり、今の幕府の開国路線と重なった。もともと長州藩論は佐幕であり、そのくくりの中で従来通りでいくか、改革をするか、という違いである。

 それに長州の桂小五郎は大村に留学した吉田松陰や高杉晋作と親交があり、現実的に攘夷じょういが無理である事は理解していたのだ。

 同盟を結んだのは長井雅楽が藩の主流となる前の事で、この難局を乗り切るには諸侯参加型への改革が必要なために、水戸藩と同盟を結んだに過ぎない。

 改革が必要だという既成事実を作り出し、藩論を改革派へと向かわせ、幕府にも改革を上書するためである。

 そもそも実働部隊が水戸藩主体であり、裏切るも何も、桂たちは事前に襲撃の無謀さを伝えてもいたのだ。




「あいわかった。この儀において、長州の関わり間違いのなき事として、お伝えいたすとする」




 ■肥前国彼杵郡そのぎぐん

 お里は精煉せいれん方から出向してきた産物方研究掛の役人と話をしている。

「缶の製造状況はいかがですか?」

「はい。製胴機での圧着接合加工により、胴体の接合は大幅に効率化されました」

 役人は新しい製造ラインを指さす。

 製胴機が次々と缶胴を成型し、職人たちは接合部のはんだ付けに集中している。

「一日千個の製造も可能になるでしょう。蓋底の打抜機、回転はんだづけ機での底付け、そして製胴機と、全工程で機械化が進んでいます」

 お里は満足げに製造ラインを見渡す。

「良いですね。では次はハンダを使わない缶の製造工程を考えましょう」

「はい。現在、試作機を開発中です」

 最新鋭の缶詰製造技術を持つ大村藩の工場は、すでに近代的な生産体制を確立しつつあった。半島でも水産加工品の製造を目的として、さらなる技術革新への挑戦が続いていく。




 次回 第278話 (仮)『皇女和宮とロシア全権との交渉』

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