文久二年六月七日(1862/7/3)
発 京都留守居役 宛 蔵人様
島津三郎様 在京不逞浪士鎮撫ノ功アリ 従四位下左近衛権少将 叙位任官ノ 動キアリ
■江戸城
安藤信正は久世広周から聞いた腹案について考えていた。
やらせればよい、と。
・将軍の上洛
これは問題ない。家茂に話をして天皇を尊び体制委任論を体現するためだから問題はない。
・五大老の設置
薩摩・長州・土佐・仙台・加賀の沿海5大藩の藩主
・慶喜の将軍後見職と松平春嶽の政事総裁職就任
「まあ、話は聞いてみようか」
信正の正直な感想であった。勅使随行であるから、あからさまに断ることはできない。断れば何のための公武合体かと批判が噴出するからだ。
「これは……」
江戸に到着した久光は息をのんだ。
通常の参府とは異なり、街道筋には幕府の新編成の陸軍、およそ千名が配置されていた。整然と並ぶ歩兵たちは、韮山笠を被り、筒袖に駄荷袋を背負っている。
屯所記号の入った胴乱が腰に付けられ、まだ完全な洋式とは言えないまでも、明らかに旧来の武士とは異なる軍の気風を漂わせていた。
士官たちは三斎羽織に筒袖、段袋姿で、身分により表黒や表藍の裏金の陣笠を被っている。
「まずは、これをご覧いただきたかった」
信正は穏やかに微笑んだ。江戸城の御用部屋で久光を迎えた信正の態度には、新しい時代への確かな手応えが感じられたのだ。
「江戸内海には台場あり、江戸表の備えは万端に整えております。公儀も寝ているわけではない故、時代に即した改革は確実に進めておるのです」
久光は黙ってうなずいた。京での不逞浪士鎮圧で手腕を認められ、勅使に随伴する形で参府した自分への配慮なのか、それとも牽制なのか。それは現時点ではわからない。
ともかく、その軍容で威圧しようという目論見は外れたようだ。だが、久光には天皇の勅命という強い味方があった。
「さて」
信正は居住まいを正した。
「三郎殿の建言、拝聴しましょう」
「は」
久光も正座し直す。
「一つに、公方様の上洛でございます」
「うむ」
信正はうなずいた。これは既に了承する腹積もりである。
「二つに、沿海五大家中による五大老を設ける」
信正の表情が僅かに引き締まる。しかし、すぐには反論はしなかった。
「三つに、一橋刑部卿様の将軍後見職、ならびに松平春嶽様の政治総裁職就任を」
静寂が広間を支配した。久光の建言は、幕府の中枢にまで踏み込む内容である。しかし、その場の空気は意外にも穏やかだった。一触即発という訳でもなく、想定内という感じである。
? いったいどういう事だ?
久光は調子を狂わされた感があった。
「うべなるかな(なるほど)。なかなかの腹案ですな。久世殿」
信正がゆっくりと口を開くと、脇に控えていた久世広周が一歩進み出た。
「は」
「これについて、貴殿の考えは?」
「許容できる範囲かと。然れど……お伺いしたき儀、加えて我らにも条件がございます」
目を細めて広周は静かに答えた。
「如何なる事にござりましょうや」
久光は即座に聞き返す。
「まず、沿海の御家中のうち大国の五つの大名を大老に立てるとの事でござるが、然らば只今の大老である対馬守殿(安藤信正)は如何あいなりましょうや? 無論筆頭大老として、その五大老とやらをまとめるべきかと存ずるが、如何に」
久光は息をのんだ。想定外である。
「それは……」
広周は淡々と続けた。
「大老は老中の上に立つ最上位の職。この新たな五大老と、只今の大老との関係を、如何お考えでしょうか」
久光の表情が僅かに強張る。現職の大老・安藤信正との権限の調整という核心を突かれたのだ。
「まさにその点につきまして、少し補足いたしますが」
久光は慎重に言葉を選ぶ。
「御大老様には、筆頭大老として五大老を統べていただく所存。全国の家中の考えを集約し、公儀の政務全般に反映させる役目を」
「ほう……然らば、すべての家中の考えをその都度聞き回っていく、と?」
信正が聞き返した。
「いえ」
久光は間髪入れずに否定する。
「まずは五大老を置き、その五家中に、それぞれ近隣の家中の考えを集約させる所存にございます。それを江戸にて合議し、御大老様のもとで政務に反映させる」
「ふむ……それでも随分と時がかかるような気が致すが、いかがでござろうか。国の大事をいちいち諸家中に諮っていては決まるものも決まりませぬぞ」
信正は反論、というよりも単純に聞いた。
「仰せの通りにございます」
久光は冷静に返答する。
「ただし、大事と小事を分けて考えとう存じます。日々の政務は従来通り、御老中様方にお任せし、これからの国是に関わることを合議いたしたく」
「国是、といわれましても……」
信正の声にわずかな苛立ちが見え隠れする。
「開国も軍備の拡張も、既に公儀として方針を定め、着々と進めておる。天下の政道について、今さらなにを合議なさるおつもりか」
久光は一瞬言葉に詰まった。確かにその通りだ。幕府の政策に今のところ大きな不備があるわけではない。現時点で何を変える必要があるというのだろうか。
「……まあ、まあ良いでしょう。御大老を設ける儀は良いかと存じます。筆頭大老の某は決してその御大老を蔑ろにするわけでもなく、取りまとめる役割に徹するといたしましょう。ただし、議論紛糾し決まらざれば……お分かりですな」
「……」
「ああそうだ、これまで某とここにいる老中とで決めて参ったのです。不都合がなければそのままやれば良いと存じます。つまるところ、大老と老中でそれぞれ議をなし、結果を照らし合わせ、その上でさらに議を重ねるべし。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったものでござるが、八人の老中の考えと五人の大老、それを某が取りまとめれば、なんの問題もないであろう」
久光は答えない。
坂下門外での信正の失脚もなく久世も健在であり、あらたに板倉勝静や水野忠精ら数名が老中として加わっており、政権を運営していたのだ。
「そうですな……名をつけるとすれば、老中院と大老院とでもしますか」
老中院と大老院。
その言葉に、久光は目を見開いた。まさか、こんな形で提案を受け入れられるとは思わなかったのだ。信正の発言は、自分の案を完全に否定するものではない。
それどころか、むしろ具体的で現実的な制度として昇華させようとしているのだ。
「うべなるかな(なるほど)。それぞれの議論を尊重しつつ、最終的には筆頭大老のもとで取りまとめる。筋が通っておりますな」
広周が同意した。
「然り」
信正は穏やかにうなずいて続けた。
「これなら、公儀の体面も保たれ、かつ諸家中の意見も取り入れられる。さて、肝心の後見職と総裁職は……」
……冗談ではない。老中院だと? 筆頭大老だけでも煩わしいのに……。
久光が心の中で憤りを覚えたのは当然である。
老中の任命権者は、大老である信正なのだ。
次回予告 第280話 『将軍後見職、是か非か』
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