天正十九年十二月二十四日(1591/1/19) 肥前諫早
諫早城にある純正の執務室は、静寂に包まれていた。窓の外を見下ろせば、城下を東西に流れる本明川が穏やかに広がり、見上げると未だ明けきらぬ空がどこまでも続く。
朝靄が海面を覆い、冷え込む室内では石炭ストーブが暖を取るように静かに燃えている。机の上には、各地から届いた報告書がいくつも積み重なり、執務室の一日が始まろうとしていた。
「ふむ、|哱拝《ぼはい》が明軍に勝ったか……」
純正は呟き、報告書に目を走らせた。固原鎮の明軍は壊滅状態、魏学曽は戦死。哱拝の勢力は今後ますます拡大していくだろう。本人が望むと望まざるとに関わらず、時代が求めているのだ。
「これで明の弱体化はさらに加速する。遷都も時間の問題だろう」
純正は一人うなずいた。
明の首都である北京は北東の女真と北西の哱拝、二つの勢力に圧迫されることとなった。明から送られて来る和議の使者もことごとく断られていたのだ。
それもそのはず、哱拝は寧夏を国として認めるように要求し、明としては割譲して新たな国家を認める事などできないからだ。
純正の脳裏には、中国大陸の新たな勢力図が描かれていた。
哱拝、楊応龍、女真族……そして、いずれ生まれるであろう南明。これらの勢力を巧みに操り、それぞれと交易を行って大陸を分割統治下に置く構想が、着実に現実味を帯び始めていた。
混沌とした大陸、群雄割拠の時代こそ、純正にとっての極東、肥前国の安寧であったのだ。もちろん、明だろうが清だろうが、きちんと対等に交易・外交が出来るなら問題は無い。
しかし、中華思想があるために、無理な話だろう。
その時、襖が静かに開き、側近の黒田官兵衛が部屋に入ってきた。
「殿下、ヌルハチより急報です」
「朝鮮? 何事だ」
純正は官兵衛から受け取った書状を広げた。
「……ヌルハチか」
ヌルハチは将来女真族を統一し、後金を建国して明を滅ぼすことになる人物だ。純正はウラジオストクで沿海州の領有問題で会談したが、それ以前より対明共同戦線で支援をしていたのだ。
もっとも、肥前国は表向き明国とは戦争状態にはない。しかし、もう十数年前からお互いに敵性国家だと認識していたのだ。明が国力の低下もあって、台湾の領有問題以降接触をしてきていないだけである。
しかし純正のその対外経済政策は確実に明の国力を削いでいた。琉球の肥前国への冊封や朝鮮の明国に対する朝貢の形骸化、それと並行して他の東南アジア諸国と明との関係も悪化している。
表向きは別として、中華思想は崩れ去っていたのだ。
純正はヌルハチからの書状を読み進めた。
そこには明との緊張の高まりと、更なる支援要請が記されていた。ヌルハチは建州女真を率いており、明との対立を深め、自らの勢力圏拡大を目論んでいた。
最近は海西女真と戦って二度も破り、その勢いは近いうちに海西女真を滅ぼすだろう。その後は、野人女真を併合することで女真統一を果たし、明へと矛先を向けるだろう。
「ほう……これは面白い」
純正は哱拝の要請でヌルハチが明に対して共同戦線となる同盟を結んだ事を知っていた。哱拝にとっては援軍があればしめたもの、なくてもその存在で北からの圧力を明に与える事ができれば良かったのだ。
ヌルハチにとっても明の内乱はいいニュースである。その間に女真を統一してしまえばいいのだから。
哱拝の乱に乗じてヌルハチが勢力を拡大し、海西女真、そして野人女真を平定すれば、強力な女真統一国家が誕生する。その暁には、明は北からの強大な圧力にさらされることになるだろう。
「明への牽制としては、申し分ない。然れどヌルハチの力が大きくなりすぎるのも厄介だ。……あい分かった。存分に支援いたそう。ただし、女真を統一するまでじゃ。それ以降は控えよ。そうだ……哱拝にも使者を遣わそう。明を南に追いやりつつ、北ではヌルハチと哱拝の勢力の均衡がたもてるようにするのだ。支援は惜しまぬ、とな」
純正はそう言って官兵衛に指示を出す。
「官兵衛、ヌルハチへの返信を書け。海西女真、そして野人女真平定まで、肥前国は惜しみない支援を行うと伝えよ。然れどあくまで口約束だ。つぶさなる題目は書かず、女真統一後については『改めて協議する』と、一言付け加えておけ」
「かしこまりました。哱拝へはどのような指示を?」
「哱拝には……」
純正は地図に目を向けながら言葉を選んだ。
「寧夏建国への支持を改めて伝えよ。そして農業技術と医療の専門家を派遣する用意があると。武器弾薬も同じくだ。ただし、交易路の件については、女真の承諾を得てからと伝えるのだ」
「御意」
官兵衛は筆を走らせながら確認するように言った。
「農業技術と医師衆の派遣は、民の支持を固める上で大きな助けとなりましょう」
「その通りじゃ。哱拝には民の支持が何より必要なのだ」
純正は立ち上がり、窓際に歩み寄った。本明川の流れを見下ろしながら、言葉を続けた。
「そして、もう一つ。北京包囲の構想も伝えよ」
「北京包囲、でございますか?」
「然り。ヌルハチが遼東ににらみを効かし、哱拝が寧夏から圧力をかける。明にとって、これほどの脅威はあるまい」
官兵衛の表情が引き締まった。
「しかし、この先ヌルハチが遼河以東を手に入れれば、海への出口を得ることに……」
「それは些末な事。いまさらヌルハチが海へ出たとて、わが肥前国の海軍の脅威たりえるか? 今は明を南へ追いやることが先決だ。ヌルハチには寧夏との橋渡しとなってもらうのよ」
純正の構想としては哱拝が北京を陥落させ、黄河以北・以西をを勢力下に置く。遼東においては哱拝とヌルハチの協議のもと、遼河以東をヌルハチのものとして女真統一に拍車をかける事であった。
南へ追いやられた明は西の揚成龍の乱にも圧迫され、ますます国威を落とす。
これにて中国大陸は三分され、中華三分の計が成立するのだ。
「播州は如何いたしましょうか?」
「……楊応龍か。いましばらくは黙っておこう。これより勢力を拡大するはずじゃ。然れど今のままの暴政ならいずれ国は滅ぶ。そうなってはまた明が盛り返しかねぬから、誰が別の王を立てるようにせねばな。……まあ、いずれにしても先の話じゃ」
純正はその後、戦略会議室の会議衆を集め、詳しい戦略を練るのであった。
次回予告 第768話 『世界戦略と極東戦略』
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