文久二年八月十九日(1862年9月12日) 玉蘭閣
晋作とその一行は重厚な扉を押し開け、『玉蘭閣』の中へと足を踏み入れる。
そこは豪華絢爛な装飾と、妖艶な雰囲気に満ちた別世界だった。華やかな衣装をまとった人々が行き交い、賭博に興じる者、酒を酌み交わす者、そして、怪しげな取引を行う者たちが入り乱れている。
「凄い熱気ですな……」
峰がつぶやくと、五代がうなずいた。
「まるで、阿鼻叫喚の地獄絵図だな」
「五代殿、それは言い過ぎではないか?」
中牟田が苦笑する。確かに騒がしいが地獄絵図とはまた違う。
今道はキョロキョロと辺りを見回し、興味深そうにつぶやいた。
「いろいろな人種がいますね。西洋人、インド人、それに……あちらの方は何人でしょうか?」
「服装もさまざまだな。異国情緒があふれている」
雄城も同意してつぶやいた。晋作は冷静に周囲を観察し、用心深くあたりを見回している。
「まずは……酒とばくちだな」
「はああ?」
中牟田が素っ頓狂な声を上げたが、五代は晋作に同意した。
「いや、ここは社交場だ、酒も飲まず博打もせず、何もしないのに情報が得られるとは思えない」
「ううむ」
「まあ、郷に入れば郷に従えと言うだろう。いくぞ」
使い方間違ってないか? と中牟田は思ったが、金なら峰源助が大きな西洋風のバッグ(大村藩製)を抱えて持参していたし、今道晋九郎も同じようなバッグを抱えている。雄城直紀も同様だ。
晋作たちはカジノに併設されたバーカウンターへと向かった。様々な人種の人々がカウンターやテーブルで酒を飲んだり、会話を楽しんでいる。
「全員に酒をおごるぞ」
晋作(通訳:晋九郎)が大きな声で宣言するとバーテンダーは驚いた顔をしたが、すぐに満面の笑みを浮かべた。
「かしこまりました! 何をお持ちしましょうか?」
「この店の最高級の酒を、だ。全員分」
晋作は豪快に言った。バーテンダーは喜び勇んで、棚から高価そうなボトルを次々と取り出した。晋作の豪気な振る舞いに、バーの客たちは興味津々の様子でこちらを見てくる。
晋作は客たちに軽く目礼し、『皆さんの分も。どうぞ』と言ってバーテンダーに指示して酒を振る舞わせた。
店内は一気に活気づき、晋作たちを称賛する声が飛び交う。晋作は笑顔で客たちと乾杯を交わし、自然な会話の流れで情報を引き出そうとした。
雄城と今道はフランス語で他の客に話しかけ、五代は英語で上海の情勢や青幇についての情報を集め始めた。雄城直紀と今道晋九郎(複数言語)、そして峰源助は英語が話せる。
中牟田は片言ながらも客の表情や仕草を観察し、何か異質な点がないか探っていた。
しばらくの間晋作たちは酒を飲みながら周囲の様子を観察していたが、なかなか手がかりは見つからない。
「どうする、晋作?」
五代が小声でたずねた。
「このままでは埒が明かない。誰も二人組は知らぬし、こうなったら青幇の名前を出してでも人捜しをしている事を広めるか」
「然れど、如何致そう……」
中牟田がつぶやいたその時、晋作の視線がバーカウンターの一角で止まった。カウンターの端で、一人の中年男が静かに酒を飲んでいる。男は他の客とは明らかに雰囲気が異なり、鋭い眼光で店内を見回していた。
「あの男……何か知っているかもしれない」
晋作は小声で言った。
「誰だ?」
雄城がたずねた。
「わからぬ。然れど僕の勘がそう告げている」
晋作は男に近づき、隣に座った。
「こんばんは」
晋作は英語で話しかけた。男は晋作を一瞥して、視線を元に戻した。晋作は今道を呼んで中国(清国)の言葉で声をかける。
……が、伝わらない。
どうにも中国語の発音で中国語っぽいのだが、全く通じないのだ。
「困ったな」
晋作がつぶやくと、今道が声をあげた。
「待ってください」
そう言って懐から鉛筆と帳面を取り出し、筆談を始めたのだ。
『我們正在找人。聽說只要給錢青皇就會來找你。(私達は人を捜しています。青幇は金を払えば捜してくれると聞きました)』
男はギロリと晋作たちを品定めするように見た後、懐から金を出し、今道に紙をよこせと身振りで示し、『只要你付錢我就做(金さえ払えばやる)』と、短く書いた。
男は立ち上がり、アゴで2階を指し示して、着いて来いと言っているようだ。
晋作は仲間たちに目配せし、全員で男の後に続いた。
二階へと続く階段を上がっていく間、五代が小声で『罠かもしれないぞ』と警告したが、晋作は『かもしれんが、人捜しを頼む僕たちを、なんのためにワナにはめる?』と答えた。
男は二階の廊下を進み、最奥の個室へと晋作達を案内した。部屋に入ると、大きなテーブルで3人がわいわい喋りながら食事をしている。豪勢な食事だが、一番奥にいる男がリーダーのようだ。まだ若い。
男は奥へ進み、そのリーダーらしき男に耳打ちをした。
「おお! そうかそうか! なら、まずは食事と酒だ! こっちへきて一緒に飲もう」
お! 言葉がわかるぞ! 今道はそう思い晋作を見る。下っ端はおそらく上海周辺の言葉で喋ったので伝わらなかったのだ。この男が黄金栄かはわからないが、上層部は知識人なのだろうか?
大きな声で男が声をあげると、召使いのような男達が数人で料理と酒を運んできた。並べられた料理は、見たこともない珍しい食材を使った豪華な中華料理だ。
「さあ、遠慮なくどうぞ。腹が減っては戦はできぬ、といいますからね」
リーダー格の男は豪快に笑い、晋作たちに酒を勧めた。晋作は警戒しながらも、男の申し出を受け入れる。
「では、いただきます」
晋作たちは席に着き、勧められるままに料理と酒を口にした。男たちは陽気に話し、酒を注ぎ続けた。
宴もたけなわになった頃、リーダー格の男が口を開いた。
「さて……オレの名は黄金栄。周りからは若いと言われるが、この玉蘭閣を切り盛りしているのはオレだ。それで、誰を捜してほしいんだ?」
「僕は高杉晋作だ。日本から来た。二人組の外国人を捜している」
「で、その二人はいったい何をしでかしたんだ?」
晋作以下全員がヒソヒソ声になっているのを見た黄金栄はそう言って続ける。
「そこでお仲間内で話すのは構わないが、この王は日本語が話せるぜ」
「私は長崎の唐人屋敷に出入りする商人の家系に生まれましたから、日本語がわかるんです」
驚く事に傍らにいた側近のような男が流暢な日本語で話しかけてきた。
晋作達に緊張が走る。
「わはははは。なーに、別にとって食おうなんて訳じゃない。こっちにとっては大事なお客様だ、下での大盤振る舞いも聞いている。恐らく金はあるんだろう。ただ……」
「ただ?」
「相手によっちゃ、こっちも相当危ない橋をわたらなきゃならねえ。仲間を危険にさらすんだ。いくら金を積まれても、相手によっちゃ……わかるよな?」
場が静まりかえったあと、晋作が大笑いしだした。
「なあんだ、泣く子も黙る青幇は腰抜けの集まりか? 上海の裏社会を牛耳っていると聞いたから、わざわざここまでやってきたんだ。そんな腰抜けなら今すぐ帰る」
「え? ちょっと晋作さん!」
「晋九郎、訳せ! あの王と黄以外にもわかるように伝えるんだ!」
晋九郎が恐る恐る訳して言葉を発すると、王はそのまま日本語を黄に伝えているようで、黄はニヤニヤしているが、もう1人の構成員はガタンと音を立てて勢いよく立ち上がり、晋作に向けて銃を構えた。
晋作達を連れてきた男も銃を構えている。
「ひいいっ」
今道がしゃがみ込み、ピーンと張り詰めた空気が辺り一面に立ちこめた。
「まあまあ、なかなか本音での取引は難しいな。ここは落ち着いて話をしようじゃないか。あんた達もその銃をしまってくれないか」
次回予告 第294話 『交渉開始とイギリスの魔の手』
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