第294話 『交渉開始とイギリスの魔の手』

 文久二年八月十九日(1862年9月12日) |玉蘭閣《ぎょくらんかく》

「なるほど。で、イギリス人の旅行客が巡撫じゅんぶだか知府だかの……ああ、大名って言うんだったか。その行列を遮って進もうとして、その2人が銃を撃ち、他のイギリス人が無礼を働いたってことで、日本の慣習によって斬られたという訳か? そこから逃げた2人を捜せと」

「まあ、大筋はそうだ」

 一通りの生麦事件の経緯を黄金栄に伝えた晋作は、腕を組んで黙った。

 黄金栄の言葉の続きを待ったのだ。

「で、なんでその2人を上海くんだり来てまで捜すんだ? 日本の法律はよくわからんが、その……大名に斬られるくらい無礼を働いたんなら、仕方ねえんじゃねえのか? まあ、連中のやる事は気にくわねえが、おかげでオレ達がこうやっていられるのも確かだからな」

「……」

 晋作は他の5人を確認するように見回して、言う。

「うちの大将は、その2人がイギリス人で、今回の事件をわざと起こしたんじゃねえかと考えている。イギリスもアメリカもフランスも、日本の利権じゃ横並びだからな。ここで問題を起こして主導権を握ろうとしたんじゃないかってな」

「ふーん、なるほどな。確かに、あいつらならやりかねねえな」

 黄金栄は顎に手を当てて考え込む。

「で、何か手がかりはあるのか?」

「現場からすぐに立ち去ったゆえ、人相などはわからん。ただ、すぐに上海行きの船に乗ったという事だから、先月の20日以降(西暦)に到着した日本発の船に乗っていただろう」

「ふむ、先月の20日以降か……上海港に出入りする船の数は膨大だ。乗客名簿を調べても、偽名を使っていればわからん。それに、すでに上海から別の船で出ている可能性もある」

 黄金栄は眉間にしわを寄せた。

「まるで砂浜で貝殻を探すようなもんだな」

「確かに容易ではないだろう。だからお主らに頼んでおるのだ」

 晋作は真剣な眼差しで黄金栄を見つめた。

「お主らの情報網なら、この上海の表も裏も知らない事はないだろう? 報酬は惜しまない。頼めるか?」

 黄金栄は少しの間沈黙した後、不敵な笑みを浮かべた。

「よし、わかった。面白くなってきたじゃねえか。腕の見せ所だな。だが報酬は着手金で1万$、成功報酬で1万$、必要経費は別でもらうぞ。ああ、オレ達だってヤツらとやり合いたくはねえんだ。もし……このフランス租界だけじゃなくイギリス租界にまで手を広げなきゃならんなら、もっとややこしくなる」

 フランス租界の管理はフランス領インドシナにある植民地省が行っており、フランス人が一応上にたってはいたが、実際は現地の中国人が取り仕切っていた。

 アヘン取引の約4割をもらうことで、リスクなく運営ができたのだ。

 しかしイギリス租界は違う。

 ビジネス重視で儲けられればよいという考えだったが、治安維持における警察は自国民がやり、実動部隊はインドから連れてこられたシーク教徒だった。

 自由度でいえば、格段にフランス租界の方が上なのだ。




「わかった。頼む」




 ■文久二年八月二十日(1862年9月13日) 上海 イギリス領事館

「なんだって? 2人組の男を捜せだって?」

 イギリス領事のハリー・パークスは、その報せを受けて不審に思った。

「いったいどういう事なのだ?」

 日本で起きた生麦事件の際に発砲した英国人2人が上海に逃亡しているという。日本の捜査機関が上海まで来て捜査を行う事はないだろうし、あったとしても時間がかかるし治外法権の土地である。

「その2人を見つけ出し、適切に処置してほしいとの事です」

『なぜイギリス人だと断定できるのだ?』と、駐日英国代理公使のニールからの依頼に首をかしげるも、国益のためには従うほかないと思ったパークスは、領事館スタッフと警察を動員して捜すことにした。




 ■イギリス租界内 とある酒場

「おい、いつまでここにいなくちゃならんのだ?」

 パーシー・ホッグはビールのジョッキをテーブルの上に乱暴において愚痴を言った。身長180cmを超えるがっしりした大男だ。

「そりゃあオレだって早く国へ帰りたいさ」

 ビル・スレイターもグラスを傾け、ため息を吐きながら続ける。こちらは175cmで細身だが、どちらかと言うと知能犯的な雰囲気である。

「確かに上海について大金を貰いはした。これだけあればしばらくは暮らせる。しかし、大金をいただいたら無罪放免で帰国できるというのが条件じゃなかったのか?」

「そうだ! その通りだ!」

「すでに20日以上たっている。もしや……なにかまずい事でも起きたのだろうか」

「まさか、俺たちを騙したんじゃ……」

 パーシーが言葉を濁すと、ビルは疑問を投げかける。

だますだと? オールコックが俺たちを?」

「……」

「……」




 ■大村藩領内 川棚

「旦那、準備はできましたか?」

「ああ、すべて終わった。まったく、ちょっと書類の不備があった程度で何か月も待たされるとは……」

「それは今仰せになっても詮無きことにございますよ。公儀は自由な渡航を認めておらぬのです。ただ大村家中が蒸気船をもって自由に行き来できるという事で、便宜をはらってもらっていることも確かにございます」

「……そうであるな。本来なら四月の玖島くしま丸に乗るはずだったのだ。しかも先日の川棚丸の件は聞かされていなかった」

 男は不満げだが、すぐに事の重要さを理解した。




「横浜の御家老様より電信にございます!」




 -上海にて峰源助らと行動を共にせよ-




 次回予告 第295話 『イギリス租界と2人の行方』

コメント

タイトルとURLをコピーしました