天正二十一年三月五日(1592/4/16) 鴨緑江東岸 山中
悪夢のような砲撃から逃れ、夜通し走り続けてようやく夜が明けた。
渡河地点より上流にある砲撃の届かない山中に退避してきた沈有容は、深い疲労感に襲われていた。辺り一面には、恐怖に怯え、息を切らす兵士たちが散らばっている。
見渡す限り、見知った顔は見当たらない。昨日まで共にいたはずの多くの兵士たちは、どこへ行ってしまったのだろうか。
「副官!」
沈有容はかすれた声で呼びかけた。
「はっ……沈提督!」
若い副官が、よろめきながら駆け寄ってきた。
「状況を報告せよ!」
「はっ……沈提督! ……ですが、まだ夜が明けたばかりで……」
「良い。分かっている範囲で報告せよ。兵力、兵糧、弾薬、それぞれどれほど残っているか?」
「……はっ! 先遣隊、輸送部隊合わせて6万人いましたが……現在確認できているのは……8千名に届きません。恐らく7千名程度かと……」
副官が震える声で答えると、沈有容は目を見張った。5万2千以上もの兵が失われたというのか。
「兵糧は……敵の砲撃で焼き払われたものが多く……残量は、全体の1割にも満たないかと……」
「弾薬は?」
沈有容は低い声で尋ねる。
「弾薬庫のほとんどが被弾、誘爆しました。持ち出せたのは全体の1割程度……でしょうか」
副官は言葉を詰まらせながら答えた。沈有容は両手で顔を覆う。兵力、兵糧、弾薬、全てが壊滅的な状況だった。
「生き残った将兵を集め、正確な数を把握せよ。負傷者の手当、残存兵糧と弾薬の確保……できる限りのことを行うのだ。急げ!」
沈有容は絞り出すような声で命令を下した。
「この惨状を……一刻も早く軍務様に報告せねば」
軍務である楊鎬は、昨日報せをうけ河口周辺の沈有容の部隊へ視察に向かったが、途中で至近弾があり、『適宜応戦』と伝令を送って退却していた。
■肥前国海軍 出雲艦上
「総司令長官、まずは重畳にございますな」
第1艦隊司令長官の赤崎伊予守中将が勝行に話しかけた。李舜臣には昨日の砲撃の残敵掃討、水軍を率いて川を遡上させ、負傷者と捕虜の対応をさせている。
捕虜には十分な待遇をし、治療を施して開拓地の屯田兵として使う予定である。後に明との国交が成立すれば帰国も可能かもしれないが、現時点では、ない。
「ふむ……」
「いかがなさいましたか?」
「この後よ……。敵の大将はさらなる補給の要請をするであろうし、そうでなくても16万の大軍じゃ。引き続き補給がいるであろう?」
「つまり、補給の船団がくると?」
「うむ、殿下はそう読まれてオレをここに配したのだろう。兵糧は十分にあるであろうが、弾薬はいかがじゃ? いかほど使った?」
「駆逐艦で約2割から4割、巡洋艦で4割から6割、戦艦も4割から6割となっております。昨日と同じであれば、あと1回は攻撃可能かと存じます」
実は純正は継続的な補給の分断と砲撃、海戦を実施するために、呉の第2艦隊と交代で任務にあたるよう指示を出していたのだ。あと3日で呉の第2艦隊が交替要員としてやってくる。
「竜岩浦の港湾施設はあらかた破壊した。今後明国の水軍が物資を送ろうとしても、ここには来まい。より西の安東県の港に陸揚げし、その後陸路で鴨緑江の上流の部隊へ輸送するだろう」
「そうでしょうね。明としてもわざわざ危険を冒してまで竜岩浦には来ぬでしょうし、それを受け取る部隊がおりませんから意味がありません」
赤崎は答えた。
「そこよ。されど初めての輸送船団であれば、この砲撃の事実は知らぬであろう? 3日後の交替までにやつらがくれば、お主も初めての艦隊決戦ができるぞ」
肥前国海軍(その前身)が艦隊決戦を行ったのは、対平戸松浦・上杉・スペインと実は少ない。ほとんどが輸送業務と艦砲射撃による作戦参加である。
艦隊の司令長官として実戦経験があるのは姉川延安、信秀中将、佐々清左衛門加雲中将、鶴田上総介賢中将。残念ながら赤崎は実戦経験に乏しく、純正が査定に関係はないといっていても、戦働きは武将の本懐であった。
「戦はしなくてすめば、それでよいと考えております。然りながらもしその機会があったのならば、存分に働きとう存じます」
「あはははは、正直だな。まあ、これは運を天に任せるより他はあるまい」
「然に候」
■天正二十一年三月七日(1592/4/18) 義州府
沈有容からの報告を受けた楊鎬は顔面蒼白になり、言葉を失った。机の上には、沈有容が送ってきた報告書が広げられている。その内容は、想像を絶する惨状を物語っていた。
「……5万以上の将兵を失っただと……? 兵糧も弾薬も1割しか残っていないとは……」
楊鎬は、震える声で報告書の内容を読み上げた。その声はまるで老人のように弱々しく、力がない。
「……これは一体どういうことだ?」
楊鎬は天を仰いで深いため息をつくが、その心中は怒り、悲しみ、そして恐怖で埋め尽くされていた。
「軍務様……落ち着いてください」
副官が、心配そうに楊鎬に声をかけた。しかし、楊鎬は副官の言葉に耳を貸さず、ただ|茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしている。
「これが落ち着いていられようか。副官、私は夢でも見ているのか……?」
楊鎬は、独り言のようにつぶやいた。深い絶望感が漂っている。
「……軍務様、残念ですが現実です。しかし、まだ希望を捨ててはなりません。幸い鴨緑江は川幅が広いとはいえ、上流にいけばいくほど浅瀬も増え、あのような大型船は遡上できません。つまり、敵水軍からの砲撃はないと考えて良いでしょう。さらに敵軍ですが、すべてあわせても4万の兵ならば、鴨緑江下流にしか軍を展開できていないはずです」
「つまり?」
楊鎬は副官の言葉に少し冷静さを取り戻したようだ。初戦での完敗は尾を引くだろうが、それがすなわち敗戦を意味するものではない。
「はい、まずは沈有容殿の軍と合流し、全軍をもって義州府を出発、平壌へ向かい制圧します」
「平壌へ? いくら数の優位があるとはいえ、制圧できるのか?」
「……非常に厳しいと言わざるを得ません。敵の増援があるかもしれませんし、平壌にもおそらく肥前国軍……でなくても朝鮮の正規軍がいるでしょう。しかし士気が落ち、兵糧弾薬が乏しい我が軍においては、死中に活を見い出すほかありません」
「ううむ……」
楊鎬は考え込んだ。
確かにそうだ。ここでじっとしていても餓死するだけである。自滅を待つよりも、討って出るしか方法はない。本国に要請した援軍と補給物資も、いつ届くか分からないのだ。
「……そうか。ならば私が考える作戦は、いかに多くの兵を、いかに平壌までたどり着かせるか、だ。それには……まず、どの道を行くかだが、もっとも近道は肥前国軍がいるので論外だ。ゆえに道は3つ」
楊鎬は地図を広げ、3つのルートを指でなぞった。
「甲は義州府から鴨緑江沿いを北上し、朔州郡水豊までいって大館郡、亀城市を経て平壌へ向かう。1番遠いが道は広く、行軍は簡単だ。乙は甲と同じく遡上はするが途中で東進し、大館郡を経由して甲と同じく平壌へ。距離は甲より短い。丙は義州府から直接亀城市へむかう。最短だがもっとも険しい道程だ」
楊鎬は副官に視線を向けた。
「副官、お主ならどの道を行く?」
「私であれば……丙です。もっとも険しい道ですが、距離が最短であれば、それだけ早く平壌に着き、食料を確保できます。それに、敵もまさかそのような険しい道を通るとは思わぬでしょう」
「確かにそうだ。しかし、もし敵がそこに伏兵を配していたならば……お前も見たであろうあの手銃を。殲滅の恐れがある。ゆえに私は別の方法をとろうと思う」
「それは、どんな作戦でしょうか?」
「すべての道を通る」
次回予告 第779話 『絶望の行軍と鴨緑江沖海戦』
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