第300話 『状況急変』

 文久二年九月五日(1862年10月27日) 長崎

 -発 次郎 宛 一之進 重畳、患者の容態を優先し、横浜で回復の後、協力を願う-

 長崎へ到着した済世丸は医療物資の補給を行い、出港した。

 横浜を目指し、患者を診療所に移した後に完全に回復させ、その後交渉の場で証言して貰う運びとなったのだ。




 ■文久二年九月七日(1862年10月29日) 土佐沖

 長崎を出港した済生丸は順調に航海を続け、数日後には横浜が見えてくるはずだった。しかし、運命は残酷な舵を切る。

 パーシーは目が覚めてから時折胸の痛みを訴えていたが、一之進は当初、術後の痛みだろうと判断していた。それでも術後の経過観察は怠らない。
 
 現時点で恐らく世界最高水準の医療技術で見守っていたのだ。

 だがある日の朝、パーシーは激しくき込み、息苦しさを訴えた。

「先生、は、はあ……息が、できない……!」

 パーシーの顔色はみるみるうちに蒼白そうはくになり、冷汗が滝のように流れ落ちた。一之進はすぐに異変に気づき、胸の音を聴診する。

「肺塞栓症だ!」

 一之進は叫んだ。

 一之進はこの病状の深刻さを理解していたが、レントゲンで確認するにも時間がかかり現実的ではない。それに解像度の低い今の装置では、肺塞栓を発見することは不可能だと即座に判断した。

 原始的な装置で酸素吸入を試み、精製度の低いアドレナリンを慎重に投与するが投与量のコントロールが難しい。予想通り効果は限定的で、一之進の焦燥感が募るばかりであった。

「ビル、落ち着いて聞いてくれ。パーシーの容態は深刻だ。私の知る未来の……いや、何もなければ助かる可能性もあったが……正直なところ難しい」

「なんでだ先生! パーシーはオレと一緒で良くなってたじゃないか! 手術は成功したんじゃないのかよ?」

 ビルは混乱と悲しみのあまり、声を荒らげた。一之進はビルの肩を掴み、真剣な眼差しで語りかけた。

「手術は成功した。だが、肺塞栓症は術後の合併症だ。血栓が肺の血管を詰まらせてしまうんだ。残念ながら現代(1862)の医療技術では……(現代なら血栓溶解剤やカテーテル手術といった方法があるが)、できることは限られている」

 一之進の説明はビルにはよく理解できなかったが、それでもパーシーが助からないかもしれないという現実は重くのしかかっていた。

「先生……頼みます……パーシーを……」

 ビルは絞り出すように言った。一之進は力強くうなずく。

「約束する。私にできることは全てやる。諦めずに、一緒に闘おう」

 一之進は看護師たちに指示を出し、できる限りの治療を続けた。
 
 モルヒネを投与してパーシーの苦痛を和らげ、呼吸を安定させようとしたが、一之進の尽力もむなしく、その夜パーシーは静かに息を引き取った。

 ビルはパーシーの冷たくなった手に触れ、嗚咽おえつを漏らす。晋作と彦馬も言葉を失い、ただ沈痛な面持ちで見守るしかなかった。
 
 2人の過去がどういうものなのかは誰も知らないが、仮に2人がイギリス国内で犯罪者だったとしても、友の死を悲しむ心は誰もが同じなのだ。

 一之進は静かにパーシーのまぶたを閉じ、無念さを噛み締めた。
 
 CT・血栓溶解剤・カテーテル・人工呼吸……。未来の医療があれば助かったかもしれない。だが今は、ただこの時代の医療の限界を改めて突きつけられただけだった。

 歯噛みするより他ない。

「イギリスめ……! パーシーを殺した……!」

 ビルのつぶやきは、悲しみから憎しみへと変わっていった。

 パーシーを失った怒りは、やがてイギリスに向けられることになるだろう。

 済生丸は重い空気をはらみながら、横浜へと舵を切った。




 ■横浜 イギリス公使館

「なんだって! ? 2人が捕まっただと! ?」

 上海からの急報を聞いて駐日イギリス代理公使であるニールは気が気ではない。直接自分が指示したわけではなくても、生麦事件へのイギリスの関与が明るみに出れば、国際社会における信用は失墜してしまう。

 それだけは避けなければならない。もはや賠償どころの話ではなくなってきたのだ。

 オールコック前駐日イギリス公使が、上海のイギリス人2人を使って島津久光の行列に発砲、そして事件を誘発した。今はそのならずものがどこの誰だか不明だから、被害にあった側として賠償請求できるのである。

 オールコックはそれを狙い、一般のイギリス人の命を危険にさらしてまで騒ぎを起こしたのだ。上海公使館からの手紙には次の内容が書かれてあった。

 ・2人が死亡
 ・2人の身柄を日本人に奪われた。
 ・大使館の職員も死亡。もしかすると奪われたかもしれない。

「死亡? ……ならば死人に口なしではないか。職員だと? なぜ職員が? いや、全員死亡しているなら証言の心配はない……が、なんだこの胸騒ぎは?」

 ニールは急ぎ居留地内で人を雇い、横浜の診療所内に出入りする人を見張るように指示をだした。死んだなら証言は出来ない。じゃあなぜ奪ったのか?

 ニールは嫌な予感しかしなかった。




 ■数日遡って 横浜奉行所

 -発 一之進 宛 次郎 イギリス人3名確保なれど重傷、これより横浜に向かう。-

「おおおおお!」

 次郎は飛び上がるほどの喜びを覚えた。

「これでイギリスの言い分をしかと覆す事ができるの」

「は、まず間違いなかろうかと存じます」

 安藤信正に対して満面の笑みで次郎は返す。

「されど、3名とはなんぞや? 下手人は2名ではなかったのか? しかも重傷とは……」

 今度は大村純顕が次郎に質問した。

「それはわかりませぬ。ただ、よりよい証人か、または偶然の産物でしょう」

 いずれにしても証人の到着と回復を待って、ニールとの交渉に臨むこととなる。




 次回予告 第301話 『対面と交渉』

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